の手が肩からブラブラに下ってしまっていた。

        二

 そのブラブラになってしまった手をどう療治したのか、彼も知らず、私もまた知らない。
 大方、何かの草の根を煎じてむしたくらいのことほか、出来はしなかったのだろうけれども、そこは御方便なもので、余病も起さず、赤坊の軟い骨はどうにか納まって歩ける頃には、別に不自由もないほどになった。
 けれども、よく見ると、右の手は左の方よりかなり短い。そして肩のところが、変に嵩《かさ》ばったようになっているくらいのことで済んだのは、何しろ仕合わせであった。
 赤いお月様に右の手の長さを一寸足らず取られた以外、彼は死なせたくても死なないような丈夫な子に育った。大きな大きな二つの眼、響くような声と、岩畳《がんじょう》な手足、後年彼を幸福にもし、不幸にもした偉大な体躯が、年中|跣《はだし》で馳けまわっていた頃から、そろそろと彼に、仲間での有力者たる特権を与え始めた。
 ずいぶん見かけは、粗暴な様子ではあったが、心は案外おとなしい、親切なところを持っていたというのは、あながち自画自讃ではないらしい。
 喧嘩には、俺がなければ納まらないという自惚《うぬぼれ》――幼稚であり、無智ではあるかも知れないが、決して憎むことの出来ないほど、単純な可愛い自信――を、根強く彼の心に感銘させただけの侠気は、その時分も弱い者の肩を持つくらいのことはさせただろう。
 けれども、彼の持つ同情心も侠気も、極く粗野なものである。
 心の訓練によって磨いた徳ではないのだから、人間の子供が与えられるだけのものは皆与えられ、それが衝動的に命令するがままに行動する。
 それ故、今、弱い者の肩を持って、多勢の悪太郎共を相手に竹槍合戦をする彼は、その竹槍を投げ出すと、こっそり、他所の畑へ忍び込んだり、果樹へ登ったりする。そこに何の矛盾も感じない。
 そして、今なおその味の忘られない一つの計略によって、しばしば貧乏な百姓の彼としては、異常な美味にありついた。それはこうである。
 なにしろ、その頃は狐が人間より遙に多い。それ故、どうしても畑地や田が彼等に荒らされる。春から穴に入る狐は、ちょうど収穫時頃から、暴威をたくましゅうする。そこで、彼の村の一つの習慣として、子を育てている狐を見つけたら、その穴へ、強飯《こわめし》や薯《いも》の煮たのやらを持って行ってやる。その強飯や薯の煮ころばしで、狐の好意を釣出す訳なのである。
 ところで、三郎は、そこへ気がついて、同志を募っては、原っぱ中に子持ち狐を探しに行く。いくらその時分でも、人間に面と向えば狐の方で逃げるのだから、なかなか子持ち狐、それも強飯と薯の煮たのを供えられる資格のある、生れたての子狐を伴れたのには出会わない。けれども、四日五日と欠かさず歩きまわっているうちには、一つぐらいは見つけられる。そうなると、母親に注進する。注進したばかりではなく、必要があれば現場をも見せる。
 そして、作ってもろうた施物を持って穴へ行く彼は、十分の一ぐらいのお裾分けを置いてやったなり、あとはさっさと、自分達のお腹の中へ施してしまうのである。
 そんなことをしながら、三郎はだんだん大きくなった。そして、多分十一二頃、隣村の何とかいう寺へ、お小僧に住込ませられた。
 隣村といっても、その時分の隣なのだから、それこそ狐や狸の穴だらけな野原を越え、提燈のろうそくを掠める河獺《かわうそ》のいる川を越えた二三里先の村なのである。
 そこへ字を習いに、毎日通ってはいられず、また、「お寺様への附届け」を十分するほど、子供に寛大になっていられなかった彼の親は、庭の掃き掃除、台所の手伝や小間使いを勤めるのと引き換に、「音信ぐらいは書ける」手習いを授けてもらうことにしたのである。
 藁で小さいちょん髷《まげ》に結い、つぎだらけの股引に草鞋《わらじ》がけで、大きな握り飯を三つ背負った彼は、米三升、蕎麦粉《そばこ》五升に、真黒けな串柿を持った親父につれられて、ポクポクポクポクと髷には似合わず幅広な肩の上へ、淡黄色い砂埃を溜めながら、遠い路を歩いて行った。
 そして、どこまでだか送ってくれた、遊び仲間が別れるとき急にあらたまって、
「行かしてごぜ……」
と、一斉におじぎをしてくれたときには、生れて始めて、「胸にはあ、おっちみるような心持」がしたそうである。
 けれども、それが悲しさであったのだろうと、一言の説明を加えない彼は、やはりそのときも、それが何だか知ろうとも考えようともしなかったのだろう。
 彼はただ、門の傍にどんなにおいしそうな柿が熟れてい、それをどんなにして、行った早々の自分が盗み、どんなに満足と勝利の感に充たされながら、話している和尚と親父の傍で食べたかということだけを、はっきりと覚えている。
 それほど、その
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