げてしまったけれども、俵に詰って梁から下っている三郎坊主は、藁一重外に、そんなことが起ったとは夢にも知らない。
 暗闇の中に眼を光らせ、耳をすませて、突かれるのを待っている。こちらでは、和尚さんが、妙な顔をして、宙に下っている大俵を見た。彼には、一向訳が分らない。何のために俵が下っているのか、中がどんな様子になっているのか、人の好い和尚さんは少からず不気味だったに違いない。とう見、こう見していた彼は、やがて子供に返ったような顔附でチョイとその俵を持っていた杖で突いてみた。
 すると、途方もなく大きな三郎坊主の声が、真面目くさって、
 ボーン……
と、余韻まで引いて鳴り渡った。――これはその時代の彼の代表的逸話である。がとにかく、一年近く体は寺にいたが、頭は相変らず、同じように野や山や鐘楼のまわりをかけめぐっていた。気に入っていた和尚さんも、これでは仕方がないとでも思ったものか、彼の十三のとき、
「おぬしは、胆はあるようじゃ、が、文字の人ではないらしいで、実家へ戻れ。その方がええじゃろうよ」
と、宣告した。そのとき、彼は別に悲しくも恥しくもなかった。ちょうど、寺にもそろそろ飽きて来た時分だったので、内心ホクホクしながら、貰った飴を大切に舐り舐り、今度は一人で家へ戻って来たのだそうだ。
 こんなにして、彼の少年時代はしごくのんきに、思いのままに過ぎた。
 紅毛人の黒船がどこへ来たとか、誰某《だれそれ》がおしおきにあったとか、掃部様が斬られたとか、江戸は上を下への大騒動で、かりにも二本差す者は、大なり小なりに相当の苦しみにあわなければならなかった時分、平の土百姓、それも山奥の自分の領主さえ知らないような者の息子に生れた彼は山一つ彼方のことは、噂さえ聞かずに育ったのである。
 私共には想像も及ばない、単純さの中に、彼のこの時分までのことは、ほとんどお噺《はなし》に近いような状態で過ぎて行った。
 もう十三にもなり、わずかの文字も知り、どこかの箱屋へ年期に入ったこれから先は、だんだん「一人前」に近づく階段で、もっと実際的に興味のある話は、たくさんあるに違いない。
 けれども、どうしたものか、寺から戻って、二十二三までのことは、私の知っている範囲では、非常にざっとしている。
 生れたときから、狸に腕を折られた彼としては、実際、簡単明瞭すぎる。彼に聞いても言わないし、周囲の者も知らない。
 私はただ、箱屋へ一年半ほどいた後、漢法医の下男に入り、またそこを出てから、「屋大工」の年季に入ったことだけを聞き知っているのみである。
 箱屋へ行ったのは、稼ぎを覚えるためである。漢法医の世話になったのは、工合の悪い右の肩が、時候の変り目、変り目にいたむのを手療治するためであった。
 主人は親切な人だし、仕事は楽だし、手当てはしたいだけ出来るし、彼にとってはこの上ない処であるべきはずなのだが、ただ一つのことが、やがて彼をそこからも飛び出させてしまった。いくら下男でも、薬草刻みをするからには、医術の初歩を知らねばなるまいという、主人の親切気が、彼にとって蛇より化物より嫌いな書物をあてがわせたからである。
「何々の病気には、かれこれの草を煎じて服すべし。それでも利かざるときは、なお、何々を用うべし……。まんではあ、雛形と、ちっとも違わねえこった、ハハハハ」
 彼は今でもこう云っては笑うからよほどその方則が滑稽に感じられたのだろう。若しかすると、「先生様」の尊敬は、こんな下らない薬草の講釈から出て来るのかとでも、思ったかも知れない。とにかく、そんな処からは、すぐに出てしまった自分に、彼は今なお愛すべき矜恃《きょうじ》を感じていることだけは確である。
 けれども、「屋大工」の処には、かなり長い間いたらしい。そこで相当に腕も出来、顔も広まり、川辺――これは村の名である――「川辺の三郎どん」の存在は、ようやく明かになって来た。
 音吐朗々という形容が、全く適切なほど、量の豊な、丸みのある美音と、見事な眼と、雲を突くような偉大な体躯の所有者であった彼は、まだやっと二十一二の若者として、或るときは大工になり、或るときは耕作をしながら、徐々と開け始めた明治という年号の下に、かなり仕合わせな月日を送っていた。
 そして、その頃からボツボツ着手されていた、附近一帯の開墾事業が、彼の生活に微ながら、幾分かの影響を及ぼし始めた時分には、昔鐘の真似をした三郎坊主とは、見違えるような「若えてえら」になったのである。

        五

 その開墾というのは、彼の村と隣り村との間に、果もなく広々と横わっている草刈場を新しい村落にする計画であった。
「狐っぱら」という名がついていたほど、そこには狐ばかり棲《す》んでいた。あまり狐が多いので「烏さえ来ない」ほどだったのだそうだ。狐がいる
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