はすっかりほんとの石になってしまった。
体が重いから何だか滑りそうな気がして、泳ぎを知らない三郎の顔はだんだん真面目になって来た。
水が美しいので底を透しては、のろのろ足を運ぶ。その一足ごとに深さが増して、もっとずーっと先まで行けることと思っていた彼も、山沢さんも意外に短距離で止まらなければならないことにびっくりした。そればかりでなく、現に足元をさぐりさぐり行った三郎は、思わずハッと息をのんだほど、気味のわるいものを見た。
もう半歩ばかり先へ、若し進みでもしようものなら、もう二度と「今日様」は拝めなかったろう。底の石が断崖になって、それから先はまるで底無しのようである。
尺度を支えに張って、そーっと覗いた三郎は、つい身ぶるいをしてしまった。まるで黒水晶の切り口を、縦に見たように、真黒く、けれども妙にすき通るような色を持った水の、厚い厚い層が見えるばかりで、底らしいものはどこにも見えない。
三郎の心には、伝説的な恐怖が、微に蠢《うごめ》き始めた。で、大急ぎで、岸の方に顔を振り向けて、駄目だという示しに大きく手を振った。そして、一二歩後戻りをしてから、大きな声で、
「ここから先あ、底無しだぞッ」
と怒鳴った。
すると、山沢さんが、しきりに首を傾けていたが、やがて「もう駄目かな」と、普通な声で独言した。それが、はっきり彼の耳へ届いた。
山沢さんはただ、何でもない口調で、もう駄目かなと云っただけである。
けれども、三郎は心にもっと強い失望と、信頼の減少とを感じたような気がした。ところで、今度は半《なかば》命令し半懇願するような山沢さんの声が、
「もう行かれないか? 駄目か?」
と叫ぶのを聞いた。
その瞬間、彼の心には例の絶対的服従の愛情が湧き上って来た。何だか、大変な覚悟が出来たような気持がした。そしてちらと山沢さんの方へ瞥見を投げながら、尺度を突きなおしたとき、彼の胸にはまた「おっちみるような心持」がスーッと拡がった。
その中に女房のおまさの笑顔と、娘の寝顔とが浮んで消えた。彼は、後からはとうてい思い出すことも出来ない一種の感情に打勝たれて、ただ明かに、「死んでも命は惜くねえ」とばかり思いながら、一歩進んだ。そして、もう片足を出そうとしたとき、急に腰のなわが、ぎゅうっと引っぱられたので、何となく急に心持がはっきりした彼は、始めて今自分の立っている位置に心づいた。そうすると、急に恐くなって――今度は確かに恐怖を感じて――さっさと岸へ戻って来てしまった。
青ざめて体中から滴《しずく》をたらしながら、汀に立った三郎の顔へ、近々と自分の顔を近よせながら、
「よくしてくれたな、有難かったぞ」
と山沢さんが云った。
すると、彼は急に、真赤な顔になりながら、大恐悦な声を出して、皆が気味悪がったほど笑ったのだそうだ。
「あのときあ死神にとっ憑《つか》れはぐった」
とそのときを思い出すたびに彼は云う。
自分の心を解剖する力などはもちろんない彼は、その異常な昂奮を、ただその底無しの「魔所」にいる、何かに取っ憑かれたためだと今も思っているのである。
その話を聞くほどの者は皆やはり彼同様の解釈ほか与えないとみえて、自分の一つ話、それは死神に誘われることは、決してないものではないという彼の考えと、実際どこの湖や河にも、きっと一つは「魔所」のあるものだという伝説との、何より確な証拠として、話すのである。彼の黒狐と同様に、ただ奇態なこともあるものという言葉で総括されているのである。
当人の彼の方は、極々さっぱりと片づけているが、山沢さんはさすがに何か感じたらしい。
それから間もなく、始まった普請に就て、大工の宰領から、木材の選択、現場の見張りまで皆三郎に一任された。
九
そのときも山沢さんは例の通り、簡単に仕事の要領を話すと、あとは貴様のいいようにしろと云ったなり、どこの大工を使えとか、左官を使えなどということは、一言も云わなかったのだそうだ。
この山沢さんの度量が、「胆に銘じた」彼は、「旦那様、この俺が引受けました」と云って帰るとすぐ、自分の手の及ぶかぎり、腕こきのものを集めた。
そして、先ずこれならばと思うものが揃うと、今度は彼が先棒となって、泥運びもすれば胴突きの繩も引張る。
大きな体を泥だらけにして、出来上って見なければ、何がどうなるのか分らない彼一流の方法で、小気味よくグングンと仕事を運んで行った。
煙草休みは一時間と定め、土方達が舌を巻くような激しい働き方をしながら、彼は我ながら自分の腕前に、「感歎措く能わず」というような心持になったりしたのである。
彼が御秘蔵のちょん髷を切ったのもこのときである。
汗に塗れ泥に塗れ、おまけに「おがっ屑」まで浴るちょん髷は、一日経つとまるでもう髷だか芥
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング