だけの力を持っていた山沢さんを見出したことは、彼にとってほんとに仕合わせなことであった。
彼はしばしば自分を満足するように使ってくれるのは、山沢さん以外にこの世界では一人もいないことを思う。そして、その人の死後の自分に、幾分か心淋しい想像をする。
けれども、この感謝が一度脣から外へ出ると、旦那様だったりゃこそ、この俺がああして使われてやった。という言葉で発表される。
そこがあくまでも彼である。臆面もなく愛すべき自負をひけらかすところに、彼の彼たる面目が、躍如としている。
子供の時分、梁から下げた俵につかまって、和尚さんの杖を合図に真面目くさって、ボーンと鳴った彼は、このときもなお、そのときのような単純な、憎みようのない稚気を持っていたのである。
彼が山沢さんに出入するようになってから二三年後、多分明治七八年頃のことだったろう。
何かやはり事業の関係で、五六里山奥の或る湖水まで調査に行ったことがある。山沢さんと、下役二人とまたその下役である彼と四人の一行であったらしい。朝早く村を立って、昼頃目的地へつく予定で歩いて行った。
その時分は、冬が今よりずっと寒かったかわりに、夏の暑さは、かなり凌ぎよかったらしい。八月頃だったのに、弁当やその他の荷を、少からず背負いながら、三郎はそんなに暑いとも苦しいとも思わなかった。
まだ惜しがって切らないちょん髷の上から、浅黄の手拭を被り、その上に笠を戴いた彼は、腰切の布子一枚の軽い姿で、山沢さんのすぐ傍から、山路を歩いて行った。
二人の下役の思惑などを構っている彼ではない。若しかすると、まだ使われてから日の浅い彼等に、自分の信任の度を、歎賞させるためだったかもしれないが、まるで兄弟分のように山沢さんの傍にくっついて行ったのだそうだ。
彼はもちろん、意気揚々としていたから、あとでその下役が山沢さんに、
「いったいあの男は何者でございます、どうもはや……」
と云ったとき、
「なあに彼かね、彼はあの通りの奴じゃよ、しかし、憎くはない奴さ」
と笑ったなどということは、おそらく今も知らないだろう。山々の峰に反響するような声で、絶えまなく自分の手柄話をしながら、湖水の見える村へ入ると、第一に感歎したのは彼である。
何とも云えないほど、湖水は広々としている。美しい。まったくこの上なく美しい。
三方を緑の山々に囲まれて、微風に小波《さざなみ》立ちながら、五六艘の小舟を浮べて、汀《なぎさ》の砂にヒタヒタと寄せる水の色に、三郎は思わずホーッと云って首を傾げた。
山かげの涼しさとは、また味の違ったすがすがしい、潤いのある空気が小波の一襞ごとにどこからか送られて来ては、開いた毛穴に快く沁みて行く。
彼は荷物や何かを、ごたごたと皆傍へ下してしまった。そして布子の胸をはだけて、雲助のような胸毛を、しおらしく戦《おのの》かせながら、目を細くして風に吹かれた。
すぐ側から、ずーっとかなりの長さに突出している船着場の石垣に甘える水の音が、厚い彼の鼓膜に擽《くすぐ》ったい感じを与える。
あまりいい心持で、馬鹿になりそうだったというのは、ほんとのことだろう。
近所の見すぼらしい茶屋で、鯰《なまず》の干物という恐るべきものをお菜に、持って来た握り飯を食べると、荷を解いて最初に水深を計ることになった。
幾里四方という大湖の水深を調査するのに、たかが人間の背の立つところまで、不正確至極な尺度か何かで計ったということは、私にはどうしても信じられない。
いくら、まだちょん髷がざらにあった時代だとはいっても、あまりのんきすぎる。開墾事業に尽瘁《じんすい》した山沢さんのすることとは思われない。
けれども、当事者であった三郎爺の断言によれば、後のことはどうだか分らないが、少くともそのときだけは、そうして計ったに違いないのだそうだ。
いくら拡がっていても、荷担ぎをする三郎が、腰に幾尋《いくひろ》かの細引を結びつけ、尺度を持って湖へ入ることになった。
八
片手には先の方でフラフラするほどの尺度を突き、太い太い腰に細引を結びつけた彼は、夏とはいっても急にヒヤリとする水の中で、鳥肌になりながら、ザブザブと、まるで馬が水浴びでもするような勢いで深みへ深みへと進んで行った。
底は細かい細かい砂である。
一足踏むごとに埋まる足の甲へ、痒《かゆ》いように砂が這いのぼって来る。体は大きくても、度胸は大きいはずでも、子供のときから水に親みなく育った彼は、足元の動揺に、少からず不快を感じたらしい。初めの五六歩は、非常な威勢で行ったのが、だんだん緩《ゆっ》くりになって来た。
細かい細かい砂、少し粗い粒、細かい礫《つぶて》から小石と順々に水は深くなって来て、腹の上あたりで、波が分れるところぐらいまで来ると下
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