たら、自分の家に使っていた、おまさという小綺麗な女を嫁にやるという約束をしたほどに目をかけたのである。
 女房も定まり、家も出来て、彼が幸福の絶頂、まったく今から考えてみると、あのときほど、何事も順調に工合よく行ったことは、もう一生を通じてないと思われる時代にあったためか、その頃彼はよく狐に釣られ損ったり、百人の中で、見る者は一人いまいというような黒狐を見たりした。そしてそれらの事々が、彼のすぎさった黄金時代の記念として、朦朧《もうろう》とした記憶の中に、今なお燦然《さんぜん》として光っているのである。
 黒狐の話は、別に大したことでもない。ただ同じ村の何とかいう百六つになっていた老人が十八のとき見たことがあるといった、真黒な、腹と尾の端だけ白い、恐ろしい古狐を、偶然田の中で見たというだけのことである。
 皆が、嘘だ嘘だと云ったそうだが、今は主筋になった山沢さんの御隠居が、昔から記録本に、何百年立つとどんな毛色になるということが書いてある。そして黒いのなら、少くとも五百年は経っていよう、と皆に話したとかで、仕舞いには事実として承認された。
 ところが、おかしいことには「何せ黒狐を見るほどの人だから」という、一つの新しい貫目が彼についた。
 けれども、この黒狐を見た人は、その頃、夜道さえすれば、きっと狐に引きまわされるというめぐり合わせになっていて、多いときには、五里の道を来るうちに、六七度化かされそうになったことさえある。
 それも皆、始めから、化かされない用心に、自分の方から狐を詐《だま》しにかかっては、失敗したのである。
 そして、一番最後に、またどこかの狐が廻りはじめたときには――私は知らないが、彼の話によると、狐が人を騙す第一には、先ず或る距離を置いて、グルグルと体の周囲を廻って歩くのだそうだ。――さすがの彼もうんざりして、いきなりどさりと田の畔に腰を下して、煙草を喫《ふか》しながら、半分やけになって、狐を盛にやじったのだそうだ。
 すると、三四度、稲をがさがさいわせながら、廻ったあげく、彼の度胸に断念したと見える狐は、どこへか行ってしまったそうである。
 彼の意見に従えば、この年以後附近一帯狐はすっかり跡を絶ってしまったから、多分どこへか宿換えする名残りに、さんざん「あばけて」行ったのだろうということである。
 一人の娘の父親となった彼は、その頃もうすっかり、山沢の旦那様に心服していた。
 彼は、主人の細密な心理状態などは知りようもない。ただ、非常に強情なことと、大まかなことと、彼をすっかり信用して、旅行へ出れば財布ごと金を投げ出して、「オイ、三郎、貴様にまかせたぞ、好いようにしろ」と云われることが、三郎の心の中に絶大の感動を与えたのである。
 お前は偉いとか、見上げたとかいう言葉を、その人は一言も吐かない。ただ、大きな頭をコクリと縦に動かして、「よくしてくれたな」と云うだけだったのだが、その単純な、彼の心に滲みとおり易い心持が、彼にとっては自ずと忠勤を励ましたのである。
 何か事業に関したことで、少し昂奮すると、彼はのそりと山沢さんの前へ出て来て、
「あなた、また何か憤っていなさるね、奥へ行かっしゃい、奥へ行かっしゃい」
と云う。すると、「誰の云うことも聞かぬ」山沢さんは、そうかと云って素直に立ちあがって、肩などは揉み潰しそうな、彼の手で按摩《あんま》をされながら眠ってしまう。
 彼はもちろん、自分の言葉の力を山沢さんの持つ度量と比較することはしなかった。勢力の過信は明かである。
 けれども、いくら彼が大きく拡がっていても、無遠慮ではあっても、一言山沢さんに、
「オイ三郎、きっと頼んだぞ」
と云われさえすると、ほとんど絶対的服従をしなければいられないものが、彼の胸の中にあった。
 山沢さんが自分の持つ信頼に就て、一言も説明しなかった通り、彼も自分の中にある主人へのその心持を、ただの一度も説明したことはない。
 もう二十年近く前に死んだその人の噂を、彼は今もよくする。
 旦那様という代名詞こそ使え、言葉なり批評なりは、弟か、従弟のことででもあるように、自由な、心の望むままの形式で話す。悪口を云いながら、わがままをしながら、山沢の旦那様には、命も惜まない愛情を彼は感じていたのである。

        七

 彼の山沢さんに対する愛情は、相手が山沢さんだからというのでもないし、主人と使われる者との間にはとかくありがちな、因縁ずくの諦めなどでは、無論ない。
 彼自身、自覚したかしないかは分らないが、堅い言葉でいえば、「己を知る者のために死す」心持が、彼と山沢さんとの間に、靄然《あいぜん》として立ち罩《こ》めていたのである。
 彼の強情を理解し、制御するだけの強情は自分も持ち、長所に依って彼の欠点を寛恕《かんじょ》して行く
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