悲しいとも、がっかりしたとも、云わなかったのに、皆はびっくりしたり、失望したりした。
誰が、言ったというのではないけれど、人々は山沢さんの死と同時に、悲歎に沈む彼を待ち望んでいた。
何だかきっと、そうに違いないという心持がしていた。
けれども、彼は、皆が自分にそんな気持を持っているのを知ると憤然とした。
彼は、亡くなった旦那様以外の一人にも、自分を憐れむことは許さなかった。命令することは許さなかった。
旦那様が、ただ一人の自分の主人であった。そして今も主人である。
旦那様が、俺が死んだら泣けと云いなすったら、俺はいくらでも泣く。が、旦那様は、しっかり遣ってくれ、頼んだぞと云いなすったではないか。
「俺あ、泣いちゃあ済まねえ。泣くなあ、馬鹿でも知ってる、なあ旦那様……」
彼は、そう思いながら、いつもの通り、大きな声で通夜の者の世話などをやいた。
けれども、山沢さんに死なれてから、彼の生活は、案の定詰らない、張合いのないものになってしまった。彼は先ず、「急に眼が片一方潰れたような」物足りなさと、不自由とを感じた。
旦那様は、彼にとって、欠くべからざる一つの眼玉であった。それが無くなってみると世の中じゅうのものが歪んだり、ひしゃげたりして見える。どっちを向いても見当がつかない。てっきりここと思うところが、皆少しずつ狂ったところにある。
今まで楽に歩き、楽に伸していた手足が、何だか、うっかりは伸されないような心持になって来たのである。
自分の強情が解り、頼んだぞという一言で自分を生かせもし、死なせもする人を失った恐ろしい寂寥が彼の、いい魂に沁み透った。
山沢さんの棺と一緒に地の下へ埋まってしまった自分の未来に対して、何を希望する気もない。ただ旦那様の盛だった時分に、その恩寵を一身に受けた自分としての光栄と、誇りの追想が、これから先の生活にたえ得る矜恃を彼に与えたのである。
けれども、もちろん彼はこんな風に、自分の心について考えるのでも、云うのでもない。
「俺の強情を、取っぷせたなあ旦那様一人だハハハハ、今時の者にゃあ、ちいっと手強《てごわ》え爺だな」
主人を失ったブルドッグのように、彼は傲然と哄笑する。
淋しい淋しい心持が、シンシンと胸に滲み込んで来ても、旦那様のお墓の前でなければ、彼は涙を見せない。
俺の涙を見せてやる者あいねえという彼の心
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