い落付きを保とうと努めながら、愛撫や囁きやアルコオルのため兎角ぐらつきそうになる。映画では大抵若い役者の役割であるラブ・シーンが、このように禿げた男、このように皮膚が赧らみ強ばった女によって現実になされるのを目撃するのは、何か、一嗅ぎの嗅ぎ煙草でも欲しい心持を起させるものだ。私は氷菓《アイスクリーム》を一片舌にのせた。その途端、澄み渡った七月の夜を貫いて、私は何を聞いたろう! 私は、極めて明瞭に男の声を鼓膜から頭脳へききとった。
「アイ、ラヴ、ユー」
 ――困ったことに、私の腹の底から云いようない微笑が後から後から口元めがけてこみあげて来た。
「何? どうしたの」
「何でもないの」
 云うあとから、更に微笑まれる。私は、字幕《タイトル》でなく、人間の声で「アイ、ラヴ、ユー」
というのをきいたのは、生れてそれが始めてであった。そして、そんなにも、何だか傍の耳へは間抜けな愛嬌に充ちて響くものだということをおどろいた。
 私は、程なくひどく可笑しい、然し、蚊の止った位馬鹿らしいような悲しさも混った心持で食堂を出た。
[#地付き]〔一九二七年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング