いる。
またさきごろは、戦争に最も反対した民主主義者を新しい軍国主義者であるといった言説が新聞に発表された。ファシスト自身をさえおどろかしたこういう実例ばかりでなく、この頃になっては、民主的ということばは、全く独占資本的または隷属的本質とすりかえられはじめている。
一九四六年においてあれほど重大な課題であった新聞、出版、放送の民主化が、今日、どういうめぐりあわせにおかれているだろう。新聞の民主化は一番早く、読売問題をきっかけにして様々の制約のもとにおかれて昨今の大新聞は日本の新聞の独立性を失ってしまった。出版の自由は用紙不足という現実条件を政治的につかまれて、現在、用紙割当の仕事の実質は内閣に移されている。更に、政府は、用紙割当事務庁をつくり、その長官が用紙割当事務に対して独占の権力をもつようにしようとしている。もちろんこの場合にも文化材である用紙割当の公正と民主性がいわれているが、主務大臣の野溝はいちはやく利害関係のある地方新聞に対して、いまにいくらでも紙はまわしてやる、と失言して、問題をおこしている。用紙割当がこのような保守と利慾の権力で官僚統制されるとしたら、日本の民主化のための出版が、どうなって行くか。結果は明らかである。
民主的な文化教育は、架空にありえない。すべての人は教育をうけることができると憲法にかかれているというだけではどんな教育の民主化もない。その実際は、六・三制の混乱と、最近全国の専門・大学男女学生が教育防衛復興闘争の一環として立ち上りはじめた学問の自由と独立擁護および授業料ねあげ反対の大運動にもあらわれている。
学生のこういう意志表示を学生の本分にもとるという意見がある。しかし学生の本分とは何であろうか。学問がやってゆけないほどの月謝ねあげに反対しないで、どこに「教育をうけるべき」(文部省のことば)学生の本分の主張があるだろう。「放送の自由をまもり健全な発達を目的とする」放送法案が六月十八日に提出された。これまでの放送協会の仕事ぶりには、いろいろの批判が加えられなければならない。内部の運営が民主的でないこと、プログラム編成が低俗であり昨今は労働、農民、報道、子供のための放送にはっきり民主化からの後退が示されてきていることが世論にのぼっている。しかし、こんど上程された法案のように保守政党が占める両院の承認を経た五年間任期の五人の委員会を
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