三月八日は女の日だ
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)駛《はし》る

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)――|ない《ニェート》!

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)クフミンストル※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]
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 モスクワじゅうが濡れたビードロ玉だ。きのうひどく寒かった。並木道の雪が再び凍って子供連がスキーをかつぎ出した。ところへ今夜は零下五度の春の雨が盛にふってる。どこもかしこもつるつるである。
 黒くひかってそこへ街の灯かげをうつす大都会、地球の六分の一を占める社会主義連邦の首府モスクワの春の泥水をしばいて電車はひどい勢で走っている。今夜は特別な日なんだ。三月八日は世界無産婦人デーである。各区の勤労者クラブでいろんな催しものがある。だから急がなけりゃならない。
 東南へ向って駛《はし》る電車のどんづまりで日本女は車を降りた。三四人、赤い布《プラトーク》をかぶった女も下りたが、忽ち散ってしまって、日本女は自分の前に雨びしょびしょの暗い交叉点、妙な空地、その端っこに線路工夫の小舎らしい一つの黄色い貨車を見た。その屋根でラジオのアンテナが濡れながら光っている。空地の濡れた細い樹の幹も光っている。あっちを見ると真黒い空の下で大きな白文字が、
[#ここから4字下げ]
КОМУНАР《コムナール》
[#ここで字下げ終わり]
 外套の襟を立てて労働者がやってきた。日本女は自分の立ってるところから大きな声で呼びかけた。
 ――タワーリシチ! クフミンストル※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]倶楽部ってどこだか知りませんか?
 ――そこの空地を突切ってずっと行って三つめの横丁を左に入ると橋がある、その先だ。――
 ――畜生《チョールト》!
 警笛を鳴らさずかたっぽのヘッド・ライトをぼんやりつけたトラックがとんできた。
 日本女は、寂しい歩道をときどき横に並んでる家の羽目へ左手をつっぱりながら歩いて行った。本当は新しい防寒靴《ガローシ》をもうとっくに買わなければならない筈なんだ。底でゴムの疣《いぼ》が減っちまったら、こんな夜歩けるものじゃない。
 橋へ出た。木の陸橋だ。下を鉄道線路が通っている。前を三人若いコムソモルカらしい労働婦人が足を揃え、雨をかまわず熱心にしゃべりながら歩いて行く。こんなことを云ってる。
 ――馬鹿なのよ! あいつ!
 ――馬鹿って云うより、無自覚だ。だって、もうあの職場じゃ九十五パーセント突撃隊《ウダールニク》じゃないか!
 ソヴェトのプロレタリアートは雨傘なんてなしで「十月《オクチャーブリ》」をやりとげた。一九三〇年、モスクワの群集中にある一本の女持雨傘は、或る時コーチクの外套《シューバ》ぐらい階級性を帯びるのだ。
 歩道の上でかたまってる人影が見え出した。鞣防寒帽子の耳覆いを、赤い頬っぺたの横でフラフラさせた男の子が日本女をつかまえてきいた。
 ――切符もってない?
 又一寸行くと、
 ――余分な切符もってませんか?
 巴里コンミューンの記念祭の夜、ルイコフの名によるクラブへ行ったときも、クラブの入口にいくたりも主に青年がかたまって、来る者ごとに訊いていた。特別な催しがあるときモスクワのクラブでは入場券がいるのだ。
 車寄から劇場そっくりにいくつもの厚い硝子扉が並んでいる。日本女は体じゅうの重みをかけそれを押して入った。バング!
 ほ、暖い!
 外套ぬぎ場があっちとこっちの端にある大きい広間《ザール》は人で一杯だ。さっぱりしたオカッパの頸へ赤い襟飾をかけたピオニェール少女。手に何かプリントをもってその少女と話してる年長のピオニェール少年。芝居行の靴下をはき、オカッパの上へセルロイド櫛をさした若い細君が、時々気にしては新しい藤色フランス縮緬の襟飾に手をやりながら、紺のトルストフカの亭主によりそって四辺を見まわしつつ散歩している。
“905”日本女の受けとった外套防寒靴預番号の真鍮札。
 外にあんな雨と暗い道があるとは思われぬ。
 絶えず人が登り降りしている大階段を日本女は二階へあがって行った。
 とっつきが国防科学協会《オソアビアヒム》の研究室だ。壁にかかってる毒ガス演習の実写、飛行機図解、銃器図解の前へ数人若い男女がかたまって案内の豆電燈をつけたり消したりしているのが見える。「帝国主義トファッシズムニ対抗セヨ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」赤いプラカート。
 戸のしまった種々な研究室が並んでる。が、日本女はモスクワ一大きい鉄道従業員組合のクラブで、今廊下の見学してはいられないんだ。監督を見つけ出さなければならない。今夜の催しのために、彼女のところにあるのは切符ではない一枚の紙っきれで、その紙っきれは絶対にこのクラブの監督を必要とするのである。
 ひどく広い。そこを歩いてゆくとだんだん通路が爪先あがりになっていくみたいだ。一定の方向をむいてあんまり静粛にどっさり並んでいる人間の間をひとりだけ歩いているとそんな気になるのだ。
 白い壁について煌々あたりを輝やかしているいくつもの電燈のカーボン線を震わすような女の声が、マイクロフォンをとおして金属的に反響している。
 ――このようにして、タワーリシチ! 五ヵ年計画はソヴェト鋳鉄生産額を世界第三位に、石炭採掘量において世界第四位に進めるばかりではありません。全ソヴェトの生産に従事する勤労者の平均賃金は五ヵ年計画の終りにおいて七一パーセント増すだろう。国家計画部《ゴスプラン》は……
 樺色の上着の肩で音波を切りながらドンドン歩いて行って監督は赤布で飾られた舞台のすぐ下第一列へ日本女を待たせ、わきの扉の方から椅子をもって来てくれた。
 こんなに遅れて来たのは日本女ひとりである。舞台の赤布をかけた長テーブルの中央に、ニッケル・ベルを前にして、もう相当年配の静かな横顔の女議長がうつむいて何か書きつけている。左右、うしろ側の椅子に並んでるのも八割は党員らしい女だ。テーブルの端っこで速記してるコムソモールカがある。レーニンの石膏像。赤いプラカートは二階バルコンの手すりからも張りまわされている。正面には燃えるようなプラカート「第十回世界無産婦人デー万歳! レーニズムの旗の下に五ヵ年計画を四年で!」棕梠の大鉢が舞台の両端に置かれてある。
 ――電化による生産手段の発達は現在一日平均七・七一の労働時間を六・八六に短縮するでありましょう。プロレタリアート新文化建設の一進展として、文部省は五ヵ年計画の終りには完全な国庫負担による四年制の全国民教育を実施しようとしているのであります。
 飛び交う数字と一種名状すべからざる緊張した熱意で飽和している空気の中をそっと、一人の婦人党員が舞台から日本女のところへきた。彼女は日本女の耳に口をつけて云った。
 ――ようこそ! どこからです?
 ――日本から。
 囁きかえした。
 ――代表ですか?
 ――いいえ。
 ――舞台の上へいらっしゃいな。もし演説して下さると非常にいいんだが――
 六七百人入っているのだ。
 日本女は辞退した。婦人党員はわきにしゃがんで日本女の膝の上へ持ってたハギトリ帖と鉛筆をのせた。
 ――では、どうぞ名と職業を書いて下さい。
 彼女は、日本女が耳で演説をききながら下手な字で「日本《ヤポーニヤ》。作家《ピサーチェリニッツア》、ユリ・チュウジォ」と書くのを熱心に見ていたが、手帖をもって立ち上りぎわ、低い声に力をこめて、
 ――ありがとう!
と云った。
 あなたが今夜来られたのは満足です。
 捲き上げるような拍手とインターナショナル第一節の奏楽が起った。演説が終ったのだ。演説者の小柄な婦人党員は水さしから一杯水をのみ、鎌と槌を様式化した演壇から議長のいるテーブルへかえって行った。
 くつろぎが広間じゅうにひろがった。
 日本女はリノリューム敷の通路を隔て左側の坐席にいる四十ばかりの太い拇指をした男にきいた。
 ――彼女の演説、長うござんしたか?
 ――我々ソヴェトの人間は短く話すのが得手でないんでね。
 そう云って笑った。それから真面目につけ加えた。
 ――五ヵ年計画そのものが小さい仕事じゃないからね!
 それは本当だ。うしろでこんな囁き声がする。
 ――どうしたの! お前さんたら。
 ――帽子見に行ったもんだから……
 三月八日、СССРの工場で婦人労働者は毎年一時間早く職場を引き上げる。
 ベルを鳴らしながら議長が立ち上った。細い年齢のあらわれてる透る声で報告した。
 ――何々区コムソモール委員会代表タワーリシチ・イリンスカヤ。
 さかんな拍手に迎えられて演壇へ出てきたのは二十二三の緑色ジャケツと純白なカラーのコムソモールカだ。が、然しこれは又なんと高速度演説! ちらりちらり上眼で聴衆を見ながら一分間息もつかぬ女声の速射砲。農婦と工場労働婦人の結合のため、我々コムソモールは全力をつくすであろう! ひょいと片肱あげて一段高い演壇から降り、舞台の奥へ戻ってしまった。湧きおこるインターナショナル。
 こまかく折畳んだ紙片が肩越しに順ぐり送られてきた。最前列の女が席を立ってそれを舞台の上、演壇の下に出されてる投書受箱へ入れてきた。
 ――タワーリシチ! 今夜盛大な第十回世界無産婦人デーの夕を持つことは実に愉快であります。何々区ソヴェトの心からの歓びを諸君に伝える為私は代表としてここに送られたのであります。(さかんな拍手)
 マイクロフォンへ真正面に顔を向け一言一言はっきりしゃべってるのは、小肥りの老けたヴォロシーロフみたいな黒いトルストフカの男だ。
 ――この愉快な夜、名誉ある勤労婦人に向って不愉快なことを話すのは不本意であります。しかし、タワーリシチ! ソヴェト五ヵ年計画を完成するために、我々はまだ自己批判すべき多くのものを持っている。今ここに集っている婦人の中にはおそらく数百人の活溌な突撃隊員《ウダールニッツア》があるだろう。数十人の活動的な代表員《デレガートキ》があるであろう。それらの階級的良心ある勤労婦人がプロレタリア革命の意味を真に理解し、偉大な助力をプロレタリア国家に捧げていることは疑いない。我々は工場において、各々の職場において実践のうちに経験しているところであります。(拍手)
 ところで、都会はそういう有様だが農村ではどうでありましょうか? 五ヵ年計画において最も重大な役割をもつ集団農場《コルホーズ》の組織について農村婦人がどんな役目を果しているかを見ると、遺憾ながら、百パーセント満足とは云えない。私がこの間田舎へ行ったら、昔なじみの女が出てきて、丁寧に昔風のお辞儀をして云うことには(話の巧いソヴェト員は百姓女のこわいろをつかった。)「タワーリシチ・グレボフ。集団農場《コルホーズ》へ入ると、赤坊もやっぱり牛みたいに共有されるって本当かね?」
 ドッと云う満場の笑い。「なおいいじゃねえか!」と云う声がした。又それで笑う。
 ――ソラ! 諸君はそうやって笑う。だがそれは一部に今なお信ずべからざる事実としてある事実なんだ。又ある村では一致して集団農場に入ることを拒絶した。何故か? 集団農場に入ると女はみんな髪を切らなけりゃならず、夜は大きな大きな一枚の布団があって皆がその下へ入って寝なけりゃならないんだと坊主が話した。それで不幸な農村婦人はすっかりびっくりしちゃった。
 聴衆は手を叩く……笑う。笑う。
 ――諸君! しかし、農村におけるこんな反革命分子の跋扈《ばっこ》および無智は放置すべきだろうか? タワーリシチ! 農村は右傾派がそれを理解したように都会によって搾取さるべき植民地ではない。都会の工業生産と断然結合すべき、社会主義的生産に欠くべからざる工業原料生産の核心なのだ。
 拍手! 熱心な拍手。もう聴衆は一人も笑っていない。
 日本女は心に一種のおどろきを感じつつあたりの顔々を眺めまわした。どうだ、この気の揃いようは! 演壇に吸いよせられ非常
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