にいきいき反応しつつもう始って三時間近くなるだろう演説をきいてるのは、いわゆる自覚ある労働者、三月八日の女主人、労働婦人及赤ネクタイをつけた彼等の前衛的後継者たちばかりではない。
 細い亜麻色のお下髪を小さい背中にたらして、水色縞の粗末なフランネル服を着ている少女はずっと日本女の右隣に坐っている。しずかに行儀よく坐って話をきき、あまり数字ばっかりマイクロフォンから鳴り響いた五ヵ年計画の話の時は右手をフランネル服のポケットにさし入れ何か粒々したものを掌へ、それから口へそっと入れた。
 咳がしたくなる。少女は彼女のまだ性別定かならぬ喉笛のむず痒さで演説の邪魔をしてはならないと知ってる。細い手の指をかためて口を押えて用心深くやっている。
 この明かに未組織な少女(ピオニェールではない)の伴れは祖母さんだ。生れてから婦人帽というものは頭にのっけずにきた、そして、自分の家の台所でか他人の家の床の上でか手と足とで働きつづけてきたという風な祖母さんだ。両眼を細め、片腕を肱ごと前列の椅子の背へもたせかけ舞台を見つめて話をきいている皺深い横顔の輝きを見てくれ。СССРが凡《およ》そ百三十万のクラブ員の上に投げているこれは光の一片である。
 革命第十三年にあるСССРで、組合員千二十八万人をもつ職業組合は、本質に於て社会主義的生産労働力統制、およびプロレタリア文化建設のために働いている。СССРじゅう数千の勤労者クラブは職業組合文化部の仕事だ。もと、クラブは会員組織だった。クラブを持っている工場又はその生産別職業組合に属するものだけ入れた。ところが、それでは一つ不便が起った。ソヴェトはプロレタリアートの国ではあるが、彼等のモスクワは社会主義都市計画によって建てられてはいない。昔々モスクワ大公が金糸の刺繍でガワガワな袍の裾を引きずりながら、髯の長い人民《ナロード》を指揮してこしらえた中世紀的様式の城壁ある市《ゴーロド》だ。現代СССРの勤労者が生産に従事し新しい生活様式をつくりつつある工場、クラブと、住んで、そこで石油コンロを燃しているであろう家とが時によるとモスクワの両端に飛びはなれてる場合がある。家へ帰ってシチ(キャベジ入スープ)を食って、さてまた市のあっちの端まで、たとえば労働者新聞で今朝読み工場では一時間の昼休みに職場委員がそのために集った「生産経済計画《プロフィンプラン》」の演説をききに行く気になるだろうか。
「よき労働はよき休養を必要とする」休養の合理化として、クラブはその所在区の市民をも吸収することになったのである。
 だから今夜、クラブ音楽部員は活溌な行進曲を奏し、
 一《ラズ》、二《ドゥワ》!
 一《ラズ》、二《ドゥワ》!
 何々区ピオニェール分隊がどっしり重い金モールの分隊旗を先頭にクフミンストル※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]・クラブの広間を行進して来た。
 右、左!
 右、左、止れ!
 分列。中央から十二三歳のピオニェール少女がつかつかと演壇にのぼった。茶色の演壇上の赤い襟飾り、しまって悧口そうな顔、房々したオカッパ。
 ――何々区ピオニェール分隊から、世界無産婦人デーへの熱心な挨拶を!
 澄んで打つような少女の声だ。続いて全分隊一斉に声を揃えて、
 ――世界無産婦人デー、万歳※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 後の方バルコンの下の坐席では我知らず立ち上って大ニコニコで舞台へ向って拍手を送っている一団がある。
 ピオニェール分隊が再び行進曲によって去り、区婦人代表員がクラブへ記念品としてレーニンの肖像画を贈呈し終ると、議長が自席で立ち上った。
 ――タワーリシチ、これで今夜私のところに記名表の来ているだけの演説は終りました。誰かもっと話したい人はありませんか?
 数百の聴衆、シーンとしている。二秒ほど経って若い男の声が叫んだ。
 ――|ない《ニェート》!
 つり出されて今度は矢継早にそこここで急いで、
 ――|ない《ニェート》!
 ――|ない《ニェート》!
 日本女の隣の拇指の太い男は、愉快そうな笑顔だ。同感してるのである。СССР労働青年の気分に。
 ――では、これから休憩二十五分。すぐ芝居にうつるが賛成ですか。
 すごい拍手だ。拍手の音が細そりした老年の婦人議長を舞台の方へふきとばした。

 日本女のまわりは完全に陽気な祭のさわぎだ。
 ――ナターシャ! ナターシャ! 早くこっちへおいでったら。
 ――ミーチャ、どこ?
 ――見なかった? あっちへ場所見つけたってさ。
 立つ。手招きする。遠くと遠くで何か合図しあってる。
 ――どいてくれ! ホラ! ホラ!
 クラブの監督がこみ合う尻や背中をかきわけてコムソモールに片棒かつがせ長いベンチをかつぎこんできた。
 ――どこへ?
 ――ここ、此処!
 第一列の前へさらに補助席だ。たちまち、舞台横の開いた扉の辺に幾重にもかたまっていた若い男女がそれに向って雪崩《なだ》れ、素早く腰をおちつけた者が三四人ある。
 四十を越した薄色の髪の監督はあわてて手をふりながら遮った。
 ――タワーリシチ! ここへ坐っちゃいけない。ここへは委員が来るんだ。そのために入れたんだ。
 ――どんな委員さ!
 ――本当にここは空けとかなけりゃならないんだ。
 ――おい。
 背広上衣の下へルバーシカを着た一人が仲間をうながした。
 ――立てよ。
 若い男二人は立ってしまったが、日本女のすぐ前へ腰をかけた女はそのままベンチのよりかかりに背中をおっつけて動かず、扉の方へ盛に手招きしている。そっちに、ズボンのポケットへ手を入れた伴れの男がよりかかって立っている。
 ――どうして? おいでよ、よ!
 捲毛のおちている首筋を、よ、よ! と強く動かしつつ呼んでる。男は黙ってイヤイヤしていたが、女があまり云うとベンチのところへきて、低い声で然しきっぱり云った。
 ――止めろよ、工合がわるいや。
 ――どうして?
 下から男を見上げ、女がまわりによく聞えるような鼻声で云った。
 ――もし委員がきたらそのときどけばいいじゃないの、折角芝居見るのに!
 男は、「ブジョンヌイ行進曲」を口笛に吹き、どっかバルコンの方を見ていたが、やがて、
 ――お前ここに坐っといで、じゃ。――今日は女の日だから女ならいいだろ!
 元の扉のところへ戻ってしまった。女は一寸膨れ、手提袋を出して鏡に自分の顔をうつした。その鏡にはヒビがいっている。
 日本女のすぐ後に、小さいピオニェール少女が二人で一つの椅子をかついでやってきた。そして赤い襟飾を並べ、そこへかけ合った。日本女はピオニェールカに訊いた。
 ――今夜誰が芝居やるの?
 ――知らないわ。
 もう一人の小さい方が、
 ――トラム。
と答えた。
 ――どうして知ってるのお前?
 これは知らないと云った方のピオニェールカだ。
 ――張り紙よんだよ……
 トラム(劇場労働青年)はモスクワとレニングラードにある純粋に労働者出身の劇団である。団員はみんな若いコムソモールで、共同経済と厳重な規約の下に階級的な集団生活をやっている。そこへ加入するには必ずある一定の期間実際生産労働に従事した者でなければならないのである。レーニングラード・トラムは自身の劇場をもっている。モスクワでトラムは各クラブをまわり、彼等のリアリスティックな芸術表現で、ソヴェト勤労者が彼等の新文化建設の途上多くもっている今日の問題を批判している。
 ――何ていう脚本やるの?
 日本女の問に二人のピオニェール少女はきっぱり返事した。
 ――私達も知らないんです。
『労働者と芸術』。モスクワでそういう新聞が発行されている。職場の勤労者たちはどんな芸術を要求しているか、勤労者の国СССРにどんな新芸術をつくって行くべきか、実際的ないろんな問題をとりあつかう。いつか、表が出ていた。
        割引切符平均価格。
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(ソヴェトの勤労者はめいめいの属す職業組合を通じて各劇場の割引切符を貰う)。
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エム・オー・エス・ペー・エス劇場
 (モスクワ地方職業組合ソヴェトの劇場)九十二・五カペイキ
革命劇場                  六十八カペイキ
諷刺座                 九十六・六カペイキ
コルシュ劇場            一ルーブル十一カペイキ
オペラ              一ルーブル二十四カペイキ
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 メーデーの翌日、モスクワじゅうの劇場は全職業組合の無料観劇日だ。しかし「大体云ってソヴェトはまだ理想的なプロレタリアートの劇場を持っていると誇ることはできぬ」。労働者と芸術の記者は書いている。「劇場の建物が古く、少人数しか収容せず、従って経営費の負担=切符が一人あて高くなる。勘定して見よう、では五人家内の勤労者の家庭が一晩の観劇にいくらいるか。職業組合ソヴェト劇場へゆくとしよう。
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九十二・五カペイキ  切符代
二十カペイキ     電車賃往復
十カペイキ      プログラム
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 芝居は七時半から始って十一時すぎ終る。モスクワ人は正餐《アベード》を午後の五時すぎ、つとめ先から帰ってたべる。寝るまで、せめて茶とソーセージののっかったパン位は食べたい。故に、
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五十カペイキ     飲食費
 計 一ルーブル七十二・五カペイキ
[#ここで字下げ終わり]
 五人だと八ルーブリ六十二・五カペイキ。エム・オー・エス・ペー・エス劇場がどんなによい上演目録をもってたとしてもそうちょいちょいは行けないではないか。ソヴェトには少くとも一時に五千人から一万人入れる劇場が必要だ。我々はアメリカの抜目ない興行主のやり口をソヴェト式に転用しなければならないのだ。」
 最近、五ヵ年計画の文化事業の一つとして劇場組織の大変革が声明された。СССРの全劇場を人民文化委員会の芸術部、職業組合《プロフソユーズ》、集団農場《コルホーズ》、中央部《ツェントル》の完全な共同管理の下におくこと。劇場中心を、生産労働区域に移動さすこと。
 これは、ソヴェトにおけるプロレタリア芸術の発展に向っての目覚ましい一飛躍である。

 コムソモールカのタマーラが思案にあまったようにして椅子にかけ、コムソモーレツのミーチャに訊いている。
 ――ねえミーチャ、コムソモールカは子供を生んじゃいけないんだろうか?
 ミーチャは菜ッ葉ズボンに年中縞の運動シャツを着てる若い工場労働者だ。突撃隊員《ウダールニク》だ。
 ――なアんだい! まるでルナチャルスキーがきいた通りの質問だね。コムソモールカは間違いなく子供を産んでいいんだよ! しっかりした次の交代者《スメーナ》をこしらえるに、コムソモールは子供を産まなくちゃならないんだ。
 ――私はそう思ってる。けれどフェージャの考えは違うのよ。
 ――ふーむ。どう?
 ――フェージャは今朝私に云った。赤坊だの、おしめだの、家庭だのって時代おくれの俗人趣味だ。俺はいやだ、って……
 ミーチャは手に持ってた針金の束でポンポン自分の脛をたたいた。(彼は彼等が棲んでるこの借室へラジオを引こうとしてるところである。)
 ――じゃ何かい、フェージャは……馬鹿らしい! お前達んところにはこうやってちゃんと独立した室があって、職業があって、しかも工場にあんないいヤースリ(托児所)があるのに――。安心しといで。俺が云ってやるから……フェージャは間違ってる! だがね、
 単純な困惑を現わしてミーチャは頭を掻いた。
 ――畜生、俺がフェージャぐらい言葉の数知ってたらな!
 フェージャは、書類入鞄をそこへ放ぽり出してカーチャを追っかけている。
 ――ねカーチャ、一寸僕の云うこときいてくれよ! 僕は全く君なしで生きるなんて、そんなこと考えられないんだ。
 ――お前、私の前にはタマーラに、タマーラの前にはリョーリャに同じことを云ったじゃないの。
 バンドつきカーキ色のコムソモールカの制服をつけて、カーチャは冷静だ。
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