をかきかけているところへ、
「是非サイちゃんにみせたいものがあるんだがね」
婆さんが重そうな風呂敷包を下げて入って来た。
「――ホーラ、どう? 何ていい縞だろう!」
くりひろげられたのは伊那紬で、正絹まがいなしの本場ものが今回限り一反二十円なのだそうだ。
「小父さんの友達から荷が今ついたところさ。サイちゃんには特別五ヵ月月賦でいいにしとくよ。月四円でこんな物が出来るんだからいいねえ。娘が二十にもなりゃ帯一本だって大事な身上だ」
躊躇したあげく、サイは到頭半分云いまかされた形で、藍と黄のを一反とることにしてしまった。
「お金がすまないうちに着なさんなとは云わないから、安心おし」
昼飯の間じゅう、婆さんが余り物のあがったことを※[#「女+尾」、第3水準1−15−81、384−11]《くど》く喋るものだから、これも夜勤あがりで寝ていたのを二階からおりて来て一つチャブ台でたべていた旋盤工の清水が、
「うー、たまんねえナ」
と急に茶づけにして、かっこんで、
「お婆さんは智慧者だよ。喉へつかえて腹が忽ちいっぱいだ」
まがい銘仙の袷の裾を脚に絡ませるようにして大股に立って行ってしまった。
「ふん、すこし金まわりがいいと、すぐあれだ」
婆さんは、おからの煮たのをよそいながら、
「ちっとはよそも見るがいいのさ」
と云った。
「酒屋の横の井上さんなんかじゃ、六畳一間を四人にかして十七円ずつとってるじゃないか。それだって、今時この辺で何て云う者はありゃしない」
そういうとき、婆さんはサイをいかにも家内のもののように自分の側にひきつけた物云いをするのであった。サイはつかまれたその袂を振り※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80、読みは「もぎ」「ねじ」、385−4]るような気分で、ぽってりした一重瞼に険をふくませ、黙りこくっていた。
四
暫く見かけなかった千人針が、駅の附近にちらほらしはじめた。サイは謂わば千人針の東京へ出て来て暮すようになったのだったが、赤い糸を縫いつける黄色い布地も、きのうあたり頼まれて手にとったのは木綿でなく、妙なレーヨンの綾織のようなものになっていた。二重の赤い糸を二重に針にからめながら、こんな布地ではじき糸のたまだけのこるようになってしまうのじゃないかと思われた。そんなになったときの千人針を考えると滑稽のようだし可哀想でもある。それでも頼むひとの本気の顔は、やっぱり純綿のときと変らないのであった。
勤めさきの仕事に使う紙もこの頃はやかましくなって、元のように割合簡単にすてることを許さなくなった。隅へ番号を入れた紙を原図の上へピンでとめていると、便所からかえって来たてる子が目を大きくしてよって来た。
「ちょっと、赤紙よ」
息をつめた囁き声なのに、弾かれたようにまわりの顔がいくつかこちらに向いた。
「隣りの室にも来た人があるらしいわよ」
忽ち室じゅうにその気分が伝わったが、その動揺を反撥するようなもう一つの気分もあって、みんなは格別それ以上喋りもしないで仕事をつづけた。
空をふるわせて鳴るサイレンの響の下にある町ぐるみ、ここへ通う者の一家で出来ているかと思われるような土地柄であったから、サイが来てからばかりでも、臨時の若い男や世帯もちのおっさんなど、随分たくさん出た。その度にここでも女がふえて来た。
ここの土地に住んでこそいるが、国は遠く東北や山陰の地方にあるというような娘がふえて来た。故郷では一家から二人出ているという娘もいる。この頃は、女十五人に男一人の割だとさ。東京がそうなのか、日本がならしてそうなったのか。それも、赤坊からお婆さんまでの女をひっくるめてのことなのかどうかは分らなかったが、働いている娘たちの耳の底にそんな言葉は澱《よど》んでしみこんで、何かの感じとなっているのであった。
赤紙のことがみんなの気をはなれて暫くしたとき、伍長の飛田が入って来た。一つ一つの図板をゆっくり見まわってから、窓を背にして立って、
「ちょっと、そのままの位置で手だけ止めて」
いつものような口調で命じた。顔がすっかり自分に向って揃うのを待って、飛田は軽い咳ばらいのようなことをすると、
「一つ報告しなければならないことが出来ました。実は只今――」
あらっ、というような声がしたような気がして、図板のまわりを漣《さざなみ》のような動揺が走った。それを、自分の声でおし鎮めるようにしながら飛田がつづけた。
「実は只今、光栄ある召集令をいただきました。兼々待望の好機でありますから、全力をつくして本分をつくしたいと思いますが、皆さんとは養成の時代からの浅からぬお馴染みであります。今日まで楽しく共に励んで来ましたが、これからは、飛田は前線に、皆さんは銃後に、其々本分をつくすことになった次第です。御承知のとおり、まだ数日余裕が与えられてありますから、愈々《いよいよ》出発の前日迄はこれまでどおり、及ばずながら御一緒に働きたいと思います」
飛田は、それだけ云うと軽く頭を下げる様子をして、やがて、
「作業をつづけて」
と、もう一度、自分も図板の間を歩きはじめた。
みんなうつ向いて、サイは何ということなし散っていない後れ毛をかきあげるような動作をした。烏口だの定規だのが、ばらばらにお義理のようにとりあげられた。すると、室の奥の図板のあたりで、くッ、くッと笑いをこらえているのか、泣声をこらえているのか咄嗟には分らないような女の喉声が洩れて、とよ子が軈《やが》て誰の目にも明らかな啜り泣きで作業服の肩をふるわしながら、顔をおさえて小走りに室から出て行った。
何とも云えないその場の空気になった。飛田は最後の図板まで同じ歩調でまわって、一言も云わず隣りの室へ走った。
よほどたって、とよ子が極りわるそうに、洗い直したような顔をうつむけて、そっと自分の図板へ戻って来た。そして、まだすっかり落着けないらしくどこか気落ちのしたような風で烏口をいじりはじめた。
弓子は、ちぇッというような眉のあげかたをしている。綾子が案外冷静に、頬の上の派手な黒子をこちらに見せて、唇のあたりに妙な薄笑いのような表情を泛べながら仕事しているのを見ると、サイはいやな気持になった。一つ一つの図板のまわりから見えない渦が流れ出して作業室のなかをめぐっているようで、サイは、仕事に身がいれられなくなった。
飛田のあとには、どんな伍長が来るだろう。サイにしろ、烏口へ墨汁のふくませかたから教えられた飛田と離れることは、何か普通の気持でないのであった。
てる子が無邪気に、
「ああア私、何だか変な気分になっちゃった」
定規を図板のむこうへ押しやるようにしながら、胸を反らしてその辺を見まわした。
「ねえ、何か御餞別あげなきゃわるいでしょう? みんな何あげるの?」
返事をするものがなかった。
「みんなで羽二重の千人針こさったげましょうか」
「うるさいわよッ」
弓子が疳癪声を出した。
「あとで、みんなして相談すればいいじゃありませんか」
てる子のああア私と云った声も、それを叱りつけた弓子の声も、仲間うちにきこえる程度でのひそひそ声であった。作業時間のうちに話しすると、ひどくおこられた。
シセンを越えるという語呂の縁起から五銭玉を千人針につける人がある。その五銭玉のついた千人針をサイの室の娘たち一同で飛田に贈ることになった。ほかに五十銭ずつ集める話がきまった。
「おっかさん一人になっちゃうのね、気の毒ねえ」
「――駄菓子屋の方が繁昌してるもの平気さ。そんなに心配なら、てるちゃん、これからちょくちょくお見舞ねがいましょう」
「なんにも、そんなに云わなくたっていいじゃあないの」
てる子が、むきになって涙をためた。
「弓子さんたら……意地わる」
弓子もてる子も、いがみ合いながら気持がしんからふっ切れてはいないのである。
何か焦々した、調子の揃わない気分が娘たちの作業室に拡った。今まで全体が平らに湛えられた水の面のようだった空気が、何とも云えず絡まるものになって、飛田が入って来るとそれを迎えて彼の動く方へ、前へも後へもよこにもたてにも、互にぶつかりながら跟いて動くような神経が群だっているのであった。若い飛田は、その感じから我知らず窮屈になって、みんなの顔を見ないようにして、図板の間を歩いて行く。それがまた室の空気に反射する。肩のつまるような一日が過ぎると、サイは、いつもよりずっとくたびれて、不機嫌になって家へ帰って来た。
敷居をまたぐと、そこの土間で飯《まま》ごとしていた六つの妙子がポツンと、
「お兄ちゃんが来たヨ」
と云った。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「勇吉さんが、つい今しがたよったけれど、あんたが帰ってないもんだから、また来るって――」
いつでも来られる人みたいに云う、トミヨの気働きのない言葉がサイの疳にふれた。
「用じゃなかったんでしょうか」
盗られた三足のゴム草履のことやシャボンのことが浮んで、心配になった。
「何とか云ってかなかったでしょうか」
「なんも云っていなかったよ。自転車そこにおっかけて、ちいと話したばっかしで……」
「……でもここがよくわかったこと」
「私もそう思ってね。そしたら、何でも東京じゅうの番地の入った地図売ってるんだってね、それを見て店の使いもするんだってよ」
こっちの方へついでがあったのかしら。日本橋からここまでと云えば、往復で何里になるのだろう。
今時分からもっと暗くなる頃にかけて、表の十二間道路の片側は東京方面からこっちへと帰って来る自転車で、一刻まるでトンボの大群がよせたようになる。後から後からとむらのない速力で陸続通り過ぎて行く自転車の流れを見ていると、体のなかで血がそっちへ引かれてゆくような、面白くて悲しい気分がした。たまに同じ車道のあっち側を逆に向ってゆくのがあると、それはペダルを踏んでいる脚の動きまで目に見えて重そうだ。
遠い路のどこかの辺を、勇吉も今頃そうやって帰っているのだろう。その姿を想像しようとすると、サイの心には、まだ田舎にいた時分、サドルをはずして横棒の間から片脚むこうのペダルへかけ、腰をひねって乗りまわしていた弟の様子が泛んで来るのであった。
五
「お早うございます」
サイは何心なく五六人かたまっている方へよって行った。
「おはようございます」
なかの一人がふり向いてそう云ったきり、みんなぶすっとしている。眼をしばたたいて、サイは小声で、
「どうかしたの?」
と訊いた。
「ふーん」
「そりゃ誰だって気持がわるいわヨ、ねえ、火曜日にさ、何てみんなで決めたの。誰だか知らないけれど、出しぬいて自分だけ好い子んなって不動様のお守りもってったり、防弾鏡もってったりするなんて――きらいだ」
作業室の娘たちの代表で、とも子とみのるが、昨夜川口にある飛田の家へ千人針と餞別の金とを届けに行った。飛田は留守で、母親が前掛の端で涙を拭きながら礼をのべ、あなたがたのお仲間が成田山のお守りを持って来て下すったり、何か鉄で出来た鏡をわざわざ届けて下すったり、と有難がった。
「誰だか、名をききゃよかったのに」
「おばあさんにわかるもんですか、――間抜けくさくて、そんなことを出来ゃしないわよ」
皆が揃って、体操[#「体操」は底本では「休操」と誤植]の始る前、とも子は腹のおさまらない調子で、
「千人針とお餞別、ゆうべ確に届けましたが、私たちの知りもしないお守りだの鏡だののお礼までおっかさんに云われて、挨拶にこまったわ」
と報告した。
「あら! そんなら私だって黒猫のマスコット持ってったのに」
てる子が残念そうに云った。
「そうじゃあないのよ。みんなできめた通りにしないひとがあるっていうのよ」
飛田が一同に贈物の礼を云ったときも、室の気分はしこりがあって、しめっぽかった。
「ああ、愈々明日か」
図板の間をぶらぶら歩きながら、睡眠不足と酒づかれの出たような艶のない顔を平手でこすって飛田が、寧ろ早くその時になった方がいいというように云った。
「みんな、後の伍長さんが来て
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