すようにして出して、
「すみません」
 その鉛筆をうけとった。
 弓子が人をばかにしていると後でぷりぷりおこった。サイが困ったようにうけ答えしていたら、わきで爪をこすっていたとよ子が、
「ふふふ、サイちゃんばっかりいい迷惑だわね。何故あんなに云うか知ってる?」
 サイの方は見ないでなお作業服の袖で爪をこすりながら気をひくようにきいた。
「さあ」
「弓子さん、自分だって伍長がすきなのよ。だからよ、ね、わかったでしょう」
 それを思い出して笑えたのだったが、笑いやんでみると、サイには、あんな風に自分を見ないで云ったとよ子の云いかたにも何か特別なものがこもっていたようで、妙な気がした。
 サイたちの室は娘ばかり二十人足らずで、男の働いている大きい作業室から張り出しのように新造された一区画であった。みんな二ヵ月の見習もここでやった新しい臨時の連中ばかりである。
 三時頃、大きい方の部屋で飛田の何か怒っている声がした。云いわけらしい別の低い声がしたと思うといきなり平手うちが聞えた。
「飛田の手だと思うなッ」
 ふくら脛《はぎ》が重たくなって、両肱をもたせた製図板に重心をかけて小休みしていたサイは、びくっとした顔になって、烏口を持ち直した。ほどなく飛田が腕章のついた作業服に、幾分顎の張った苦い顔でこっちへ廻って来たときには、娘たちは皆緊張して、いろいろな髪形を見せながら、ひっそりと図板についているのであった。

 定時のサイレンが空気を広くふるわして鳴りわたった。初まりは低く次第に太く高まって暫くの間大空に音の柱が突立ったようにそのまま鳴ってから、低くなって消えるサイレンの響は、いつきいてもサイに漠然とした怖《こわ》さを感じさせる。あっちこっちでサイレンが鳴っているけれど、ここのだけはその幾通りかの音色をぬーと凌いで、息も長く、天へ大入道が立つようだった。このサイレンが鳴り出すとその音の太さ高さから附近一帯の家並の小ささが今更感じられる。
 残業の日で、一しきりサイレンにふるわされた空気も鎮り、夕方のすきとおったような西日が窓から見える雑草の色を目にしますと、サイは冬の間には知らなかった気持が胸から脚へと流れるのを感じた。淡い気怠るさのような、また哀愁のようなその気持は、空気の柔かなこの頃の夕方のひととき、サイのぽってりした一重瞼を一層重げにするのであった。
 窓際に小さい円い腰かけをもち出して、膝の上に弁当の包をのせたまま、そんな気分でいるサイのわきへ、てる子が、
「一緒にたべましょうね」
とよって来た。年の少いてる子は、快活で、弁当箱のふたについた御飯粒を箸の先で拾いながら、
「あらいやだ、母ちゃんがまたこれ入れている、私末広きらいなのに……千葉の親類がこんなものをくれるんだもん」
 そう云いながらサイの弁当をのぞいた。
「ちょっとおかずとりかえない?」
 切干の煮つけをサイは昼もたべた。きのう弁当に入っていたのも同じものだ。王子の婆さんは元からそういうことを平気で下宿人の誰にでもした。この頃は、ものがあがったというわけでなおひどい。男連は、だからじき弁当を持って行かないようになってしまうのであった。
「ね、あんたどう思う? 伍長さん、ほんとにピクニックへつれてってくれると思う?」
「さあ……どうなんだろう」
と云いつつ、サイの目はてる子が弁当の下にひろげている古新聞の写真にひかれた。
「ちょっと」
「なに?」
「その写真」
 サイが箸を持ったままの手でこちらへ向け直して見ると、それはやっぱりそうだった。勇吉を迎えに行ったあの朝、やはり上野へ着いた山形県からの小学卒業生たちが一団で撮られていて、東北も雪の深い奥から来た少年たちは絣の筒っぽを着て、大きい行李を持っている。偶然こっちへ顔を向けている少年の円っこく光ったようにとれている鼻や、おどろいたような真黒な二つの眼は、その足許におかれた新しい行李とあわせてサイの心に迫って来るものがあった。可憐なる産業戦士、晴れの入京という見出しがついている。あの三月の第四日曜にはその前の日に卒業式をすましたような少年たちが、万を越す数で地方からこの東京へ教員に引率されて来たのだ。
 よくニュース映画に思いがけなく出征している息子や兄の顔が映っていて、大よろこびした話を、サイは思い出した。この子の親がもしこの新聞を田舎で見たら、どんな気がしただろう。
「ああ、ほんとに写真とろう」
 サイは思わず溜息をつくように云った。
「弟がこんど日本橋の方へ来たのよ」
 ここで育って、ここで勤めているてる子にその気持は通ぜず、悪気もないとおり一遍の表情で、
「いいわね、淋しくなくって」
 あとは「愛染かつら」の主題歌を鼻でうたいながら、円椅子を片づけはじめた。
 三週間近くなるのに勇吉はまだ手紙をよこさない。ここでは、なかの仕事のことをひとに話すことを堅くとめられていて、親兄弟でも同じことと云いわたされている。自分の方から弟との間におかなければならない距てがあるようで、サイは何のための何なのかも一向知らず、ただ薄い白い紙の上に朝から晩まで引いている墨汁の線へ、訴えのこもった娘らしい視線を落した。

        三

 夜勤で、かえったのは朝七時半ごろだったが、夕方四時には、また出かける仕度をしなければならない。五時から夜中の十二時迄で、次の日は定時で一日という順になっている。
 ピクニックのあとから急に夜勤がはじまったりしてまた忙しくなって来た。荒川堤へ行ったのはよかったが、昼から雨になって、みんな裾をはしょって、手拭を帯の上へかけて遑《あわただ》しく帰った。
 キコ・キコ・キコ・キコとポンプから洗濯盥へ水を汲みこみながら、サイはその日の情景を断片的に思い出した。その町筋には鋳物工場がどっさりあって、洞のように暗い仕事場の奥で唸りながら火焔があがっていた。古腹がけのどんぶりのところだけ切ったのを前に下げて、道端の炭殼の中を箸でせせっていた神さんたちの姿。黒くって、震動しているようなその町の中を出はずれたら堤はぽーっとなるほど遙々とのびていた。川は本当に気持がよかった。
「川口へ来て世帯を持ちな、暮しいいぜ」
 まだ独身で、ここから通っている飛田がそんなことを云った。誰かが路の両側を見まわしながら、
「だってえ。どっち向いたって真黒けな人ばかりみたいなんだもの」
「それがいいのさ。金気《かなけ》がしみついてるから虫がつかないよ」
 綾子が細かいめの紫と白の矢羽根の袷で、パラソルを膝の前へつきながら河原で跼んで流れを見ていた姿が、シャボン泡の中へ甦った。
 あらかた洗濯物がすみかかったとき、婆さんがひょいと裏へ首を出した。
「おや、洗濯か。サイちゃんはまめで、見てても気持がいいや。――若いもんはいいねえ」
 薄赤い、むっちりした手が水の滴をたらしながら襦袢をしぼり上げるところを見ていたが、引込んだと思うと、
「ちょいと、すまないけど、これもついでにザブザブとやっといて下さいな」
 焼杉の水穿きをつっかけて、自分の水色格子の、割烹着をもって来た。
「ここへおきますからね、すまないねえ」
 サイがどうとも云わないうちに、素早く、シャボン水の流れている三和土へじかにおいて縁側の方へ行ってしまった。
 しんから舌うちしたいところをやっと耐えて、サイは唇をかんだ。何て気にくわないやり方をする婆さんだろう。まともに物を頼むということを知らないで。姉さんと呼んでいるここのかみさんのトミヨがサイの母親の血つづきで、上京したのも、その連れ合いが高島屋の裁縫をひとてでやっているというお針屋の口を世話してくれたからであった。ところが家のなかのことや、サイのほかに四人おいている下宿人の世話は連れ合いのおふくろであるこの婆さんが一切とりしきっていた。トミヨは子供にかまけて、合間に賃仕事をするのが精一杯のように、まとまっては物も言わなかった。
 サイを今の勤めにふりむけて、女中に行っている先から暇をとらしたのは、周旋屋のようなことを商売しているトミヨの連れ合いの寸法であった。
「そりゃお目出たい。全く今どき、いいねえちゃんが、よその台所を這いずっているなんて気が利かないよ」
 婆さんは、一応戻って来ながらも不安そうにしているサイにそう云った。
「そうときまれば、サイちゃんも立派なおつとめ人だもの、あんきに手足を伸すところもいるわけだね」
 耳のうしろから半分吸った煙草を出して、何か思案しながら豆タンの火をつけている秀太郎に、
「あの二畳あけたらいいだろう」
と云った。
「あすこなら、家のものの目も届いてサイちゃんも安心だし、十五円で三度たべて一部屋ついて、大勉強だよ、ねえ」
「うむ。――それにしても、何とかしてもう三四人、東京で働きたいって娘はないもんかね。どうだ、サイちゃん、田舎の友達でそんなのないか」
 そんなことで月十五円払う話もついたことになってしまった。
 サイは、婆さんに押しつけられた洗いものまで竿にとおしてしまうと、徹夜して来た眼玉の芯《しん》がズキズキ疼くような疲労を覚えた。
 茶の間から掃き出したごみが葉蘭にくっついている手洗鉢の横からあがって、サイは自分の部屋の戸をあけた。便所と手洗いの間にはさまれているこの二畳はおかしな部屋で、どだい壁も天井板もないところであった。低い頭の上から、三方ぐるりと白地に紋がらの浮いた紙貼りで出来た部屋であった。おそらく素人細工のその紙貼りは、柔かくぶくついている上に天井にも横の方にも汚点が滲んでいて、初めてそこに坐ったとき、サイは鼠の小便のかかったボール箱に入ったような気がした。そして、この頃の陽気になると、その部屋はほんとにボール箱みたいな糊の匂いがするのであった。
 片隅に積んである蒲団を斜《はす》かいに敷いて、サイは横になった。
 とろりとしたと思うと、部屋のすぐ外の狭苦しい空地へ、ワーッと鬨《とき》の声をあげて、うちの子供が近所の仲間と走りこんで来た。突カン! 突カン! 何だイ! 支那兵の癖して。負けなけりゃ遊んでやんないから。ワーッ。竹の棒でうち合う音がする。遠くなったり、近くなったりする夢と現の境でその声をきいていると、どの子か、駈けまわっている拍子にいやというほど二畳の窓へこけかかって、格子なしのガラスがこわれそうな音を立てた。
 サイは、夢中でその騒ぎから身を庇うように蒲団を頭まで引かぶった。
「どこの子だい! 乱暴するんなら、表の空地でやっとくれ」
 婆さんが、便所の中から怒鳴りつけている。びっくりしたので動悸がうって、サイは蒲団から苦しそうに上気《のぼ》せた顔を出した。すっかり眼がさめてしまった。眼がさめながらまだ痺れたように睡たくて、背なかが蒲団から持ち上げられないほど懈《たる》い。こういうときがサイにいちばん辛く悲しかった。働くことはかまわないのだけれど、せめて夜勤のあとぐらいたっぷり食べて、存分寝てみたい。その気持が自分でも名状出来ない思いとなって、若い体に脈うって涙がこぼれた。
 冬のころ、このことからサイは今の勤めをやめようかと思ったことがあった。先にいた勤人の家庭では食物と睡る時間はたっぷりあった。給金が十五円になれば、その方がいいぐらいであった。丁度忙しくなりかかった時で、サイがそれやこれやで余り浮かない顔をしていたら、飛田が目敏く、見とがめて、
「サイさん、どうした、この頃元気がないようだぜ」
 もしいやなら、このなかでほかの仕事にまわしてやってもいいと云った。サイは顔を赧らめた。
「私この仕事がいやなんじゃないんです」
 ここをやめても、すぐによそへ勤めることは許されないという条件もあるのであった。
 涙をこぼしたら、いくらか気分がすっとした。手紙の様子では勇吉もだんだん馴れて来ているらしい。でも、たった一ヵ月足らずのうちにゴム裏草履が三足にシャボンを二つもとられたとはどういうんだろう。田舎者だから揶揄《からか》われているのかしら。当惑しながら、黙っている勇吉の丸い顔がサイの目に浮ぶようである。
 蒲団をあげて積んだ上へ便箋を置いて手紙
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