い者みんなが寝起きしているらしく、往来に向った窓際にもこっちの窓の下にも小さい机が三つ四つ置いてある。後はがらんとして、ガラス越しの日光が琉球表の上に斜めにさしこみ、何処やらに男くささが漂っている。吻《ほ》っとしたような安心しきれないような眼つきでサイは机のあたりや戸棚のあたりを眺めた。兵隊に出る年までには商業も出してやるという話で、勇吉は来ているのであった。
 朝飯が出来たら呼ぶからと云って迎えに来た女が降りて行ってしまうと、忙しいような静かなような四辺に折々電話のベルがきこえて来る。暫くしてサイが、がらんとしたその部屋のひろさに押されたような小声で話し始めた。
「姉ちゃん、けさ大まごつきした。なんで時間はっきり知らさなかったのよ」
「おらもはっきり分んねかったんだもの」
「――うち変りなしか?」
「うん。母ちゃんが、姉ちゃんに負けん気だして、辛《こわ》えの無理しんなって、よ。帰《けえ》りたかったらいつでもけえって来って」
 サイは、
「母ちゃん、そんなこと云ってた?」
と何気なく笑ったけれども、その言伝《ことづて》は心にしみた。お針屋に十月《とつき》いて肋膜になったときもサイは帰らず、この二月には、夜業をつづけて二十円も国へ送った。勇吉は親身な情愛と珍しさのこもった少年ぽい眼差しで初めておちおちと姉を見ながら、
「母ちゃん、姉ちゃんに会ったらよく云えっつたよ」
「大丈夫さ。この頃は、サイさんよく続くって伍長さんが褒めるぐらいなんだもの」
 田舎へかえりたくないサイの気持は、この仲よしの弟にもうまくは話せそうもない。あの村。その村のなかの家。そこでの鶏の鳴く刻限までおよそきまっている毎日の生活。思い出すと何とも云えず懐しいところもあるが、あのなかに織りこまれてまた暮すことを考えると、体も心も二の足ふんで、こっちにいたいと思えて来る。王子で二月《ふたつき》近く臥て、その間にサイは何度か泣いたが、到頭いてしまった。未来の生活というぼんやりした輪も、今ではこの生活とつづいたところで考えられるような塩梅である。
 壁ぎわで荷をあけはじめた勇吉の日にやけた赤い頬っぺたや、胡坐《あぐら》のかき工合は、まだその膝の辺に藁でも散っていそうに田舎の気分をもっているが、この勇吉にしろ、やがてはその気持もわかるここの暮しの繋りのなかに、自分ではそうとも知らずに踏みこんで来た。七つという年のちがいばかりでない心持で自分の様子が凝っと姉に見られていると気付かない勇吉は、支那鞄の中から一つ一つ新聞包みを出して畳へおきながら、
「山北んげの正ちゃんが拵《こしら》えがすんでから急に帰《けえ》って来た」
と云った。
「ふーん。じゃみんな大喜びだろう」
「またいぐんだって。冬のうちばっか内地の米くいさ帰って来たってみんな云ってら」
「ふーん」
 勇吉が姉の膝の前へ並べた新聞包は故郷の味噌づけ、蓬餠《よもぎもち》、香煎、かき餠などであった。
「王子とここさわけるんだって」
「あっちはほんのしるしでいいよ。姉ちゃん気《き》いつけていつもいろんなもんやっているんだもの。――この蓬、※[#「餒」の「女」の代わりに「臼」、第4水準2−92−68、読みは「あん」、370−9]はいってか?」
「いたむから入れねってさ」
 田舎でも砂糖は足りないだろう。サイが、あとでわければいい、とガサゴソ新聞包を片よせているところへ、梯子段の下から、
「御飯ですよ」
という声がした。自分たちに云われたのかどうか分らなくて、姉弟がちょっと顔を見合わせてためらっていると、迎えに来た女の声で、
「さ、二人ともおりて下さい」
 サイがいそいで「はい」と都会の声で返辞した。
「さ、行こう」
 サイが先へ立って梯子を下り、ここですよ、と内から云われた襖を膝ついてあけると、そこは日のささない六畳で、大きい台が真中に据えてあった。女中が遠慮のない視線でサイの人絹ずくめの体を見下しながら、台処から汁椀を運んで来た。
 ここで自分まで朝飯をよばれようとはサイは思いもかけないことであった。
「気がつまるといけないから、お源さん、お櫃《ひつ》は姉さんにたのみましょうよ」
 腹がすいている筈だのに、勇吉は三膳しか代えなかった。もっとおあがりよ、と云いたいのをこらえて、サイは洗いものを自分で台処へ運んだ。
 やがて紺色の羽二重を頸にまきつけた、でっぷりした男が懐手でその部屋へ入って来た。
「よう、来たね」
 主人だろうと思って、サイと勇吉は丁寧にお辞儀をした。
「東京はどうだね、まあ辛棒が大切だ。追々勝手が分りゃあ何にも心配するがもなあないさ」
 煙草を一服、二服して、
「何てったっけ、勇――吉君か、丈夫らしいじゃないか」
 サイは自分の膝の上を見ている。ちゃんと対手を真面目に見ている勇吉は返辞するのによく声が出ないというような困った表情をした。
「ハハハハハ、まアいいさ。あとで旦那さんが見えるから、御挨拶しな」
 じゃあ、これは支配人というんだったのかと、下を向いたままサイは何だかおかしさと馬鹿らしさがこみあげた。何て主人のように物を云うんだろう。
「ねえちゃんのいるのはどこだい?」
 姉ちゃんというより姐ちゃんという風にきこえる問いをひきうけて、
「どっか王子の方ですってさ」
 わきからおかみさんがバットに火をつけながら答えた。
「工場なんですって」
「こっからは――大分あるな。近すぎるよりは身のためだ。家へもよく云ってやって下さい。たしかに引受けたからってね」
「どうぞよろしくお願いします」
 サイは頭を下げた。
「じゃ、装《なり》みてやって」
「そりゃあなた、新どんに云ってくれなけりゃ」
「あ、そうか」
 片方は懐手のまま立ち上りながら、
「今仕着せを出してやるから、着たら店へ来な」
「さ、私もこうしちゃいられない」
 従ってサイも勇吉も坐っていられなくなって廊下へ出た。
 二階へ戻ると、サイは寂しい眼色をしながら黙って新聞包の土産をわけはじめた。

 声を出したら涙が出そうで、弟の顔を見ず格子をしめ、さて問屋町の往来へ出て、サイの気持は全くとりつくはがなくなった。まだやっと九時すこしまわったばっかりだった。日の暮れるまでにはうんと時間がある。きのう、是非にと今日休ませて貰うように頼んだとき、伍長は、サイさんがそんなに迄云うんならよくよくのことだろう、よし。と許してくれた。そのときは勇吉を出迎えるというだけで心がいっぱいで、こんなにあっけなく別れたあと、あまった一日のつかいみちに困ろうなどとは念頭に浮んで来なかった。
 いかにも王子の家へこのまま帰る気はしない。何処か行くところはないかしら。風で揺れているような春の陽を真正面にうけながら、ともかく停留場へ向って歩いているサイの頭に浮ぶのは、せむしのごく意地わるなお針屋だの、三ヵ月ほど女中に行っていた勤人の家、さもなければ、同じ村から来ているフサイのところぐらいのものだった。フサイのいるのは目黒だし、女中をしているのであったから急に行ったところで、立ち話が関の山である。自分ひとりが休んで出て来ているのだから今の勤めの友達のところへ行ったっていないことは知れている。どこか行くところはないかしら。サイにすれば、王子のうちの婆さんではない誰かの前で抱えている新聞包をあけて、堅くなった蓬餠でも焙《あぶ》りながら、三年会わなかった弟の勇吉が駅で自分を見それて、吃驚《びっくり》したように誰かと思ったと云った話もしたいのであった。故郷というものがひどく近くてまた遠く思える心持もきょうの気持も何だか誰かに話したい。そんなことも話せるようなところはどこだろう。
 停留場の赤い柱の下で桜模様の羽織の袂や裾を風に煽られながら、サイはぼんやり電車を一台やりすごした。

        二

 いく種類もの作業場が棟々に分れていて、石炭殼をしいた道がポプラの並木のある正門からそれぞれの方角に通じている。
 門のところに立っている守衛が、朝入って来る娘の挨拶のしようが悪いと、生意気なと一度でも二度でも礼をやり直させる。そこはそういう気風を寧ろ誇っていた。そして、四月に入ると、女たちが羽織を着て来ることを許さなかった。帯つきに、定められている作業服を着て門を潜らなければならないことになっている。
 広い敷地の、その辺は元何だったのか三四尺ばかり小高く土の盛り上った所があって、青々した雑草まじりにタンポポが咲いたりしている。そこへ腰をおろして、何ということなし伸して揃えた足袋の爪先が春日に白く光るのを眺めている娘。作業室の羽目にあっち向きに並んで、背中を照らされながら喋っている娘たち。ここは本を持ち込むことはやかましく禁じられていた。だから昼の休みも毎日こんな風にして過ごされる。
 胸に番号のついた作業服を着たサイと弓子とは、石炭殼の道を購買の方へ歩いていた。事務室の裏手つづきで、どの作業場からも真直来られる車軸のようなところに、小さい市場ぐらいな購買がある。ボルトで締めた高い天井の梁や明りとりのガラスの埃がこの頃の陽気で目立つ。相当こんでいる三和土《たたき》の通路を二人は菓子部へ行った。ここの蕎麦《そば》ボーロが王子の婆さんの好物で、サイは時々買ってかえってやっている。
 呉服部のところで、ケースの上にくりひろげてある絹セルや夏物柄の銘仙をちょっとさわって見たりしながら、
「これ、本当に銘仙なんかしら」
 弓子が心元なそうに呟いた。
「私たち、折角働いてこしらえたって、この頃のものなんか何こさえているんだか分んないみたいで詰んないわ、ねえ」
 月賦がきくのと時間がないのとで、娘たちはつい購買で拵えることになるのであった。
「サイちゃん、もうすんだの?」
「ううん、まだ一月あるの」
 ぶらぶら行くと、弓子がサイの作業服の筒袖のたるみをきゅっとひっぱった。
「どうしたの」
 眼顔で弓子がさすのを見ると洋品のところでひとかたまりの娘が、この頃流行の髪につける小さい結びリボンを選んでいる。その真中で、綾子が水色っぽい一つを手にとって、
「どれ? いいけど、地味だねえ」
 わきに立っている娘の髪の上にもって行って眺めているのであった。中高なのと頬の上のところに黒子が一つあるのとで綾子の派手な顔立ちは人目に立ったし、そんなにしてリボンを選んだりしている動作のうちにも、いつも見られる自分を意識しているポーズがあるのであった。
「こないだ三越でとっても素敵なの見たわ。繻子でね、片方は鼠っぽい銀色、裏は薄桃色で、モダンだったわ、一尺六十八銭よ」
 行きすぎて暫くすると弓子が腹立しそうに、
「ふん」
と云った。
「見なさい。ピクニックの話がちょっと出たらもうあれだ」
 綾子さん、華宵の女のようだわ、ととりまく娘もあって、サイはそうなのかしらと距離のある心持でいたが、弓子の綾子ぎらいは容赦なかった。向いあって喧嘩するというのではなく、製図板を並べながら互に決して口をきき合わないという形で継続されているのであった。
「けさだってさ、体操のとき、わざわざ直させたりしてさ、何ていけすかないんだろ」
「そうだったかしら」
「どこに眼がついてんのよウ」
 ふっと笑えて来たら、おかしさがとまらなくなって、サイは、ああいやだ、いやだ、と手の甲で涙をふきながら肌理《きめ》のこまかい顔を赤くして笑いこけた。
「何なのさ、何がそんなにおかしいのよ」
「だアって」
「気持がわるいわよ、云ってよ」
「御免ね、何だか急におかしくって」
 いつか、綾子が鉛筆を床へ落したことがあった。それがころがって隣の弓子の足許へ行った。弓子は勿論ひろってやらない。そこへ伍長の飛田がまわって来て、
「鉛筆がおちてるぞ」
と云った。弓子も綾子もだまりこくって製図板にふさっていると、飛田が、ポマードできっちりとわけている頭をかがめて、それをひろった。
「支給品を粗末に扱っちゃいけない、物資愛護、物資愛護」
 そう云いながら鉛筆をあげて、そのあたりを見まわしたとき、今まで知らんふりだった綾子が、
「アラ!」
 ルビーの指環をはめた左手をすこし反
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