から、嗤《わら》われんようにしっかりやってくれ。それだけはよく頼んどくぜ。何て教育しとったと云われたんじゃ、成仏出来んよ」
窓際へ佇んで伸びをするようにしながら、
「満州事件のときにも出征したが、どうも……」
と云いかけて、後はやめた。そして暫く浮かない顔で外を見ていたが、気をとり直したようにくるりと向き直って、
「さ、みんな、朗らかに、元気を出した、出した。明るい顔を見せるもんだ」
そう云われても、娘たちの眼の色は引立たなかった。
昼の休みに、とよ子が顔色を少し蒼ざめさせて、
「とも子さん、ちょっと」
とよって行った。
「あのお守りだか、鏡だかの話、私こないだ泣いたりしたから、みなさんに変に思われているかもしれないけれど、全く知らないんですから――」
切り口上で云って、一層蒼い顔をしたままむこうへ行ってしまった。
何も彼も、何てこんがらかって妙なんだろう、サイは両方の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、392−16]《こめかみ》を人さし指でもんだ。
ここのしきたりで、出征の当日は門内の広場で一同送って、外に待っている在郷軍人や国防婦人会が、往来を行列でねって行くことになっている。
何を思ったのか飛田が、
「明日は決して誰も欠勤しないように」
と念をおした。新しい伍長が来るというのが理由であったが、そればかりでもないものを感じられるようなこの二三日の空気なのであった。
珍しく定時間が続いている。その日は午後になって降り出した驟雨《しゅうう》が運よくひけ前にあがった。雨に濡れた低い屋根屋根が西日にテラテラして、どこかで雀が陽気に囀《さえず》る声がしたりしている。洗われた大通りはいつもより遠くまで見とおされて、銀杏の街路樹の色が青|蝋燭《ろうそく》の列に思える。サイは瑞っぽい空気を心持よく吸いこみながら、ゆっくり歩いて、ペーヴメントが一方はロータリについて右へ曲る本通り、もう一方は真直橋をわたって先へゆく角へ来かかった。
丁度その二股になった橋よりの歩道のところに茶色に塗られた大型トラックが積荷へ被布をかけてあっち向きに停っている。歩道のところに白バイが来ている。サイの歩いてゆく側の歩道のところに人がかたまっている。だんだんそばへ行って、サイは思わずセルの袂で口元をおさえた。トラックの後の車輪の間に菰《こも》のかぶせられたものがある。自転車が一台トラックからすこし離れたところにひっくりかえったままになっている。即死らしかった。広くてきれいな雨上りの車道を自動車やトラックがそこまで来かかると、一様に感情をあらわしてスーと速力をおとし、しかし角で停車出来ないところだから、見かえりがちに徐行して過ぎてゆく。どこもこわれたところのないような形でひっくりかえっている一台の自転車と菰をかぶせられている者の哀れな形とは、サイに鼻の髄が痛いような心持をおこさせた。スリップだ。両方でよけそこなったんだ。こっち側の人だかりの間でそんな低い声がきこえる。
袂で口元をおさえたなり、サイはまた歩きだしたが、涙の出ない哀れさが苦しく喉につまった。菰の盛り上っていた工合が大きい男と思われず、そう思うと腿のあたりを震えが走った。東京へ来たばかりのあの少年たち、まだアスファルトのスリップを知らない少年たち。勇吉の自転車姿もそのなかから浮き立って来て、サイは、袂のさきで切なそうに小鼻の横をふいた。
この頃の公衆電話には電話番号帳がない。それを思い出して、サイは、ずっと廻り道をして郵便局へよった。
勇吉を呼んでくれと頼むと、電話口で、オーイ何とか怒鳴っているのがきこえる。受話器をきっちり痛いほど耳へあてがってサイは待っていた。やがて、人の出た気配で、ぼんやりした声が自信なげに、
「――ハア」
と云うのが伝って来た。サイは爪立って送話口へのびあがった。
「ああ、もし、もし、勇ちゃん?」
間をおいて「――ハア」
「勇ちゃん! もっとおっきい声出しなさいよ。もし、もし。きこえる? 私よ……」
サイは、そういう間も時間がきれそうで気が気でない思いをしながら、ひろい東京のあっちの果から覚束なく響いて来る弟の声を一心にたぐりよせた。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「日本評論」
1940(昭和15)年4月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年5月4日作成
2003年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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