ず格子をしめ、さて問屋町の往来へ出て、サイの気持は全くとりつくはがなくなった。まだやっと九時すこしまわったばっかりだった。日の暮れるまでにはうんと時間がある。きのう、是非にと今日休ませて貰うように頼んだとき、伍長は、サイさんがそんなに迄云うんならよくよくのことだろう、よし。と許してくれた。そのときは勇吉を出迎えるというだけで心がいっぱいで、こんなにあっけなく別れたあと、あまった一日のつかいみちに困ろうなどとは念頭に浮んで来なかった。
 いかにも王子の家へこのまま帰る気はしない。何処か行くところはないかしら。風で揺れているような春の陽を真正面にうけながら、ともかく停留場へ向って歩いているサイの頭に浮ぶのは、せむしのごく意地わるなお針屋だの、三ヵ月ほど女中に行っていた勤人の家、さもなければ、同じ村から来ているフサイのところぐらいのものだった。フサイのいるのは目黒だし、女中をしているのであったから急に行ったところで、立ち話が関の山である。自分ひとりが休んで出て来ているのだから今の勤めの友達のところへ行ったっていないことは知れている。どこか行くところはないかしら。サイにすれば、王子のうちの婆さ
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