。それでも頼むひとの本気の顔は、やっぱり純綿のときと変らないのであった。
 勤めさきの仕事に使う紙もこの頃はやかましくなって、元のように割合簡単にすてることを許さなくなった。隅へ番号を入れた紙を原図の上へピンでとめていると、便所からかえって来たてる子が目を大きくしてよって来た。
「ちょっと、赤紙よ」
 息をつめた囁き声なのに、弾かれたようにまわりの顔がいくつかこちらに向いた。
「隣りの室にも来た人があるらしいわよ」
 忽ち室じゅうにその気分が伝わったが、その動揺を反撥するようなもう一つの気分もあって、みんなは格別それ以上喋りもしないで仕事をつづけた。
 空をふるわせて鳴るサイレンの響の下にある町ぐるみ、ここへ通う者の一家で出来ているかと思われるような土地柄であったから、サイが来てからばかりでも、臨時の若い男や世帯もちのおっさんなど、随分たくさん出た。その度にここでも女がふえて来た。
 ここの土地に住んでこそいるが、国は遠く東北や山陰の地方にあるというような娘がふえて来た。故郷では一家から二人出ているという娘もいる。この頃は、女十五人に男一人の割だとさ。東京がそうなのか、日本がならしてそうなったのか。それも、赤坊からお婆さんまでの女をひっくるめてのことなのかどうかは分らなかったが、働いている娘たちの耳の底にそんな言葉は澱《よど》んでしみこんで、何かの感じとなっているのであった。
 赤紙のことがみんなの気をはなれて暫くしたとき、伍長の飛田が入って来た。一つ一つの図板をゆっくり見まわってから、窓を背にして立って、
「ちょっと、そのままの位置で手だけ止めて」
 いつものような口調で命じた。顔がすっかり自分に向って揃うのを待って、飛田は軽い咳ばらいのようなことをすると、
「一つ報告しなければならないことが出来ました。実は只今――」
 あらっ、というような声がしたような気がして、図板のまわりを漣《さざなみ》のような動揺が走った。それを、自分の声でおし鎮めるようにしながら飛田がつづけた。
「実は只今、光栄ある召集令をいただきました。兼々待望の好機でありますから、全力をつくして本分をつくしたいと思いますが、皆さんとは養成の時代からの浅からぬお馴染みであります。今日まで楽しく共に励んで来ましたが、これからは、飛田は前線に、皆さんは銃後に、其々本分をつくすことになった次第です。御承知のとおり、まだ数日余裕が与えられてありますから、愈々《いよいよ》出発の前日迄はこれまでどおり、及ばずながら御一緒に働きたいと思います」
 飛田は、それだけ云うと軽く頭を下げる様子をして、やがて、
「作業をつづけて」
と、もう一度、自分も図板の間を歩きはじめた。
 みんなうつ向いて、サイは何ということなし散っていない後れ毛をかきあげるような動作をした。烏口だの定規だのが、ばらばらにお義理のようにとりあげられた。すると、室の奥の図板のあたりで、くッ、くッと笑いをこらえているのか、泣声をこらえているのか咄嗟には分らないような女の喉声が洩れて、とよ子が軈《やが》て誰の目にも明らかな啜り泣きで作業服の肩をふるわしながら、顔をおさえて小走りに室から出て行った。
 何とも云えないその場の空気になった。飛田は最後の図板まで同じ歩調でまわって、一言も云わず隣りの室へ走った。
 よほどたって、とよ子が極りわるそうに、洗い直したような顔をうつむけて、そっと自分の図板へ戻って来た。そして、まだすっかり落着けないらしくどこか気落ちのしたような風で烏口をいじりはじめた。
 弓子は、ちぇッというような眉のあげかたをしている。綾子が案外冷静に、頬の上の派手な黒子をこちらに見せて、唇のあたりに妙な薄笑いのような表情を泛べながら仕事しているのを見ると、サイはいやな気持になった。一つ一つの図板のまわりから見えない渦が流れ出して作業室のなかをめぐっているようで、サイは、仕事に身がいれられなくなった。
 飛田のあとには、どんな伍長が来るだろう。サイにしろ、烏口へ墨汁のふくませかたから教えられた飛田と離れることは、何か普通の気持でないのであった。
 てる子が無邪気に、
「ああア私、何だか変な気分になっちゃった」
 定規を図板のむこうへ押しやるようにしながら、胸を反らしてその辺を見まわした。
「ねえ、何か御餞別あげなきゃわるいでしょう? みんな何あげるの?」
 返事をするものがなかった。
「みんなで羽二重の千人針こさったげましょうか」
「うるさいわよッ」
 弓子が疳癪声を出した。
「あとで、みんなして相談すればいいじゃありませんか」
 てる子のああア私と云った声も、それを叱りつけた弓子の声も、仲間うちにきこえる程度でのひそひそ声であった。作業時間のうちに話しすると、ひどくおこられた。
 シセンを越えるという語呂の
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