部屋はほんとにボール箱みたいな糊の匂いがするのであった。
片隅に積んである蒲団を斜《はす》かいに敷いて、サイは横になった。
とろりとしたと思うと、部屋のすぐ外の狭苦しい空地へ、ワーッと鬨《とき》の声をあげて、うちの子供が近所の仲間と走りこんで来た。突カン! 突カン! 何だイ! 支那兵の癖して。負けなけりゃ遊んでやんないから。ワーッ。竹の棒でうち合う音がする。遠くなったり、近くなったりする夢と現の境でその声をきいていると、どの子か、駈けまわっている拍子にいやというほど二畳の窓へこけかかって、格子なしのガラスがこわれそうな音を立てた。
サイは、夢中でその騒ぎから身を庇うように蒲団を頭まで引かぶった。
「どこの子だい! 乱暴するんなら、表の空地でやっとくれ」
婆さんが、便所の中から怒鳴りつけている。びっくりしたので動悸がうって、サイは蒲団から苦しそうに上気《のぼ》せた顔を出した。すっかり眼がさめてしまった。眼がさめながらまだ痺れたように睡たくて、背なかが蒲団から持ち上げられないほど懈《たる》い。こういうときがサイにいちばん辛く悲しかった。働くことはかまわないのだけれど、せめて夜勤のあとぐらいたっぷり食べて、存分寝てみたい。その気持が自分でも名状出来ない思いとなって、若い体に脈うって涙がこぼれた。
冬のころ、このことからサイは今の勤めをやめようかと思ったことがあった。先にいた勤人の家庭では食物と睡る時間はたっぷりあった。給金が十五円になれば、その方がいいぐらいであった。丁度忙しくなりかかった時で、サイがそれやこれやで余り浮かない顔をしていたら、飛田が目敏く、見とがめて、
「サイさん、どうした、この頃元気がないようだぜ」
もしいやなら、このなかでほかの仕事にまわしてやってもいいと云った。サイは顔を赧らめた。
「私この仕事がいやなんじゃないんです」
ここをやめても、すぐによそへ勤めることは許されないという条件もあるのであった。
涙をこぼしたら、いくらか気分がすっとした。手紙の様子では勇吉もだんだん馴れて来ているらしい。でも、たった一ヵ月足らずのうちにゴム裏草履が三足にシャボンを二つもとられたとはどういうんだろう。田舎者だから揶揄《からか》われているのかしら。当惑しながら、黙っている勇吉の丸い顔がサイの目に浮ぶようである。
蒲団をあげて積んだ上へ便箋を置いて手紙をかきかけているところへ、
「是非サイちゃんにみせたいものがあるんだがね」
婆さんが重そうな風呂敷包を下げて入って来た。
「――ホーラ、どう? 何ていい縞だろう!」
くりひろげられたのは伊那紬で、正絹まがいなしの本場ものが今回限り一反二十円なのだそうだ。
「小父さんの友達から荷が今ついたところさ。サイちゃんには特別五ヵ月月賦でいいにしとくよ。月四円でこんな物が出来るんだからいいねえ。娘が二十にもなりゃ帯一本だって大事な身上だ」
躊躇したあげく、サイは到頭半分云いまかされた形で、藍と黄のを一反とることにしてしまった。
「お金がすまないうちに着なさんなとは云わないから、安心おし」
昼飯の間じゅう、婆さんが余り物のあがったことを※[#「女+尾」、第3水準1−15−81、384−11]《くど》く喋るものだから、これも夜勤あがりで寝ていたのを二階からおりて来て一つチャブ台でたべていた旋盤工の清水が、
「うー、たまんねえナ」
と急に茶づけにして、かっこんで、
「お婆さんは智慧者だよ。喉へつかえて腹が忽ちいっぱいだ」
まがい銘仙の袷の裾を脚に絡ませるようにして大股に立って行ってしまった。
「ふん、すこし金まわりがいいと、すぐあれだ」
婆さんは、おからの煮たのをよそいながら、
「ちっとはよそも見るがいいのさ」
と云った。
「酒屋の横の井上さんなんかじゃ、六畳一間を四人にかして十七円ずつとってるじゃないか。それだって、今時この辺で何て云う者はありゃしない」
そういうとき、婆さんはサイをいかにも家内のもののように自分の側にひきつけた物云いをするのであった。サイはつかまれたその袂を振り※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80、読みは「もぎ」「ねじ」、385−4]るような気分で、ぽってりした一重瞼に険をふくませ、黙りこくっていた。
四
暫く見かけなかった千人針が、駅の附近にちらほらしはじめた。サイは謂わば千人針の東京へ出て来て暮すようになったのだったが、赤い糸を縫いつける黄色い布地も、きのうあたり頼まれて手にとったのは木綿でなく、妙なレーヨンの綾織のようなものになっていた。二重の赤い糸を二重に針にからめながら、こんな布地ではじき糸のたまだけのこるようになってしまうのじゃないかと思われた。そんなになったときの千人針を考えると滑稽のようだし可哀想でもある
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