は、なかの仕事のことをひとに話すことを堅くとめられていて、親兄弟でも同じことと云いわたされている。自分の方から弟との間におかなければならない距てがあるようで、サイは何のための何なのかも一向知らず、ただ薄い白い紙の上に朝から晩まで引いている墨汁の線へ、訴えのこもった娘らしい視線を落した。

        三

 夜勤で、かえったのは朝七時半ごろだったが、夕方四時には、また出かける仕度をしなければならない。五時から夜中の十二時迄で、次の日は定時で一日という順になっている。
 ピクニックのあとから急に夜勤がはじまったりしてまた忙しくなって来た。荒川堤へ行ったのはよかったが、昼から雨になって、みんな裾をはしょって、手拭を帯の上へかけて遑《あわただ》しく帰った。
 キコ・キコ・キコ・キコとポンプから洗濯盥へ水を汲みこみながら、サイはその日の情景を断片的に思い出した。その町筋には鋳物工場がどっさりあって、洞のように暗い仕事場の奥で唸りながら火焔があがっていた。古腹がけのどんぶりのところだけ切ったのを前に下げて、道端の炭殼の中を箸でせせっていた神さんたちの姿。黒くって、震動しているようなその町の中を出はずれたら堤はぽーっとなるほど遙々とのびていた。川は本当に気持がよかった。
「川口へ来て世帯を持ちな、暮しいいぜ」
 まだ独身で、ここから通っている飛田がそんなことを云った。誰かが路の両側を見まわしながら、
「だってえ。どっち向いたって真黒けな人ばかりみたいなんだもの」
「それがいいのさ。金気《かなけ》がしみついてるから虫がつかないよ」
 綾子が細かいめの紫と白の矢羽根の袷で、パラソルを膝の前へつきながら河原で跼んで流れを見ていた姿が、シャボン泡の中へ甦った。
 あらかた洗濯物がすみかかったとき、婆さんがひょいと裏へ首を出した。
「おや、洗濯か。サイちゃんはまめで、見てても気持がいいや。――若いもんはいいねえ」
 薄赤い、むっちりした手が水の滴をたらしながら襦袢をしぼり上げるところを見ていたが、引込んだと思うと、
「ちょいと、すまないけど、これもついでにザブザブとやっといて下さいな」
 焼杉の水穿きをつっかけて、自分の水色格子の、割烹着をもって来た。
「ここへおきますからね、すまないねえ」
 サイがどうとも云わないうちに、素早く、シャボン水の流れている三和土へじかにおいて縁側の方へ行ってしまった。
 しんから舌うちしたいところをやっと耐えて、サイは唇をかんだ。何て気にくわないやり方をする婆さんだろう。まともに物を頼むということを知らないで。姉さんと呼んでいるここのかみさんのトミヨがサイの母親の血つづきで、上京したのも、その連れ合いが高島屋の裁縫をひとてでやっているというお針屋の口を世話してくれたからであった。ところが家のなかのことや、サイのほかに四人おいている下宿人の世話は連れ合いのおふくろであるこの婆さんが一切とりしきっていた。トミヨは子供にかまけて、合間に賃仕事をするのが精一杯のように、まとまっては物も言わなかった。
 サイを今の勤めにふりむけて、女中に行っている先から暇をとらしたのは、周旋屋のようなことを商売しているトミヨの連れ合いの寸法であった。
「そりゃお目出たい。全く今どき、いいねえちゃんが、よその台所を這いずっているなんて気が利かないよ」
 婆さんは、一応戻って来ながらも不安そうにしているサイにそう云った。
「そうときまれば、サイちゃんも立派なおつとめ人だもの、あんきに手足を伸すところもいるわけだね」
 耳のうしろから半分吸った煙草を出して、何か思案しながら豆タンの火をつけている秀太郎に、
「あの二畳あけたらいいだろう」
と云った。
「あすこなら、家のものの目も届いてサイちゃんも安心だし、十五円で三度たべて一部屋ついて、大勉強だよ、ねえ」
「うむ。――それにしても、何とかしてもう三四人、東京で働きたいって娘はないもんかね。どうだ、サイちゃん、田舎の友達でそんなのないか」
 そんなことで月十五円払う話もついたことになってしまった。
 サイは、婆さんに押しつけられた洗いものまで竿にとおしてしまうと、徹夜して来た眼玉の芯《しん》がズキズキ疼くような疲労を覚えた。
 茶の間から掃き出したごみが葉蘭にくっついている手洗鉢の横からあがって、サイは自分の部屋の戸をあけた。便所と手洗いの間にはさまれているこの二畳はおかしな部屋で、どだい壁も天井板もないところであった。低い頭の上から、三方ぐるりと白地に紋がらの浮いた紙貼りで出来た部屋であった。おそらく素人細工のその紙貼りは、柔かくぶくついている上に天井にも横の方にも汚点が滲んでいて、初めてそこに坐ったとき、サイは鼠の小便のかかったボール箱に入ったような気がした。そして、この頃の陽気になると、その
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