縁起から五銭玉を千人針につける人がある。その五銭玉のついた千人針をサイの室の娘たち一同で飛田に贈ることになった。ほかに五十銭ずつ集める話がきまった。
「おっかさん一人になっちゃうのね、気の毒ねえ」
「――駄菓子屋の方が繁昌してるもの平気さ。そんなに心配なら、てるちゃん、これからちょくちょくお見舞ねがいましょう」
「なんにも、そんなに云わなくたっていいじゃあないの」
てる子が、むきになって涙をためた。
「弓子さんたら……意地わる」
弓子もてる子も、いがみ合いながら気持がしんからふっ切れてはいないのである。
何か焦々した、調子の揃わない気分が娘たちの作業室に拡った。今まで全体が平らに湛えられた水の面のようだった空気が、何とも云えず絡まるものになって、飛田が入って来るとそれを迎えて彼の動く方へ、前へも後へもよこにもたてにも、互にぶつかりながら跟いて動くような神経が群だっているのであった。若い飛田は、その感じから我知らず窮屈になって、みんなの顔を見ないようにして、図板の間を歩いて行く。それがまた室の空気に反射する。肩のつまるような一日が過ぎると、サイは、いつもよりずっとくたびれて、不機嫌になって家へ帰って来た。
敷居をまたぐと、そこの土間で飯《まま》ごとしていた六つの妙子がポツンと、
「お兄ちゃんが来たヨ」
と云った。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「勇吉さんが、つい今しがたよったけれど、あんたが帰ってないもんだから、また来るって――」
いつでも来られる人みたいに云う、トミヨの気働きのない言葉がサイの疳にふれた。
「用じゃなかったんでしょうか」
盗られた三足のゴム草履のことやシャボンのことが浮んで、心配になった。
「何とか云ってかなかったでしょうか」
「なんも云っていなかったよ。自転車そこにおっかけて、ちいと話したばっかしで……」
「……でもここがよくわかったこと」
「私もそう思ってね。そしたら、何でも東京じゅうの番地の入った地図売ってるんだってね、それを見て店の使いもするんだってよ」
こっちの方へついでがあったのかしら。日本橋からここまでと云えば、往復で何里になるのだろう。
今時分からもっと暗くなる頃にかけて、表の十二間道路の片側は東京方面からこっちへと帰って来る自転車で、一刻まるでトンボの大群がよせたようになる。後から後からとむらのない速力で陸続通り過ぎて行く自転車の流れを見ていると、体のなかで血がそっちへ引かれてゆくような、面白くて悲しい気分がした。たまに同じ車道のあっち側を逆に向ってゆくのがあると、それはペダルを踏んでいる脚の動きまで目に見えて重そうだ。
遠い路のどこかの辺を、勇吉も今頃そうやって帰っているのだろう。その姿を想像しようとすると、サイの心には、まだ田舎にいた時分、サドルをはずして横棒の間から片脚むこうのペダルへかけ、腰をひねって乗りまわしていた弟の様子が泛んで来るのであった。
五
「お早うございます」
サイは何心なく五六人かたまっている方へよって行った。
「おはようございます」
なかの一人がふり向いてそう云ったきり、みんなぶすっとしている。眼をしばたたいて、サイは小声で、
「どうかしたの?」
と訊いた。
「ふーん」
「そりゃ誰だって気持がわるいわヨ、ねえ、火曜日にさ、何てみんなで決めたの。誰だか知らないけれど、出しぬいて自分だけ好い子んなって不動様のお守りもってったり、防弾鏡もってったりするなんて――きらいだ」
作業室の娘たちの代表で、とも子とみのるが、昨夜川口にある飛田の家へ千人針と餞別の金とを届けに行った。飛田は留守で、母親が前掛の端で涙を拭きながら礼をのべ、あなたがたのお仲間が成田山のお守りを持って来て下すったり、何か鉄で出来た鏡をわざわざ届けて下すったり、と有難がった。
「誰だか、名をききゃよかったのに」
「おばあさんにわかるもんですか、――間抜けくさくて、そんなことを出来ゃしないわよ」
皆が揃って、体操[#「体操」は底本では「休操」と誤植]の始る前、とも子は腹のおさまらない調子で、
「千人針とお餞別、ゆうべ確に届けましたが、私たちの知りもしないお守りだの鏡だののお礼までおっかさんに云われて、挨拶にこまったわ」
と報告した。
「あら! そんなら私だって黒猫のマスコット持ってったのに」
てる子が残念そうに云った。
「そうじゃあないのよ。みんなできめた通りにしないひとがあるっていうのよ」
飛田が一同に贈物の礼を云ったときも、室の気分はしこりがあって、しめっぽかった。
「ああ、愈々明日か」
図板の間をぶらぶら歩きながら、睡眠不足と酒づかれの出たような艶のない顔を平手でこすって飛田が、寧ろ早くその時になった方がいいというように云った。
「みんな、後の伍長さんが来て
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