行ってしまった。
しんから舌うちしたいところをやっと耐えて、サイは唇をかんだ。何て気にくわないやり方をする婆さんだろう。まともに物を頼むということを知らないで。姉さんと呼んでいるここのかみさんのトミヨがサイの母親の血つづきで、上京したのも、その連れ合いが高島屋の裁縫をひとてでやっているというお針屋の口を世話してくれたからであった。ところが家のなかのことや、サイのほかに四人おいている下宿人の世話は連れ合いのおふくろであるこの婆さんが一切とりしきっていた。トミヨは子供にかまけて、合間に賃仕事をするのが精一杯のように、まとまっては物も言わなかった。
サイを今の勤めにふりむけて、女中に行っている先から暇をとらしたのは、周旋屋のようなことを商売しているトミヨの連れ合いの寸法であった。
「そりゃお目出たい。全く今どき、いいねえちゃんが、よその台所を這いずっているなんて気が利かないよ」
婆さんは、一応戻って来ながらも不安そうにしているサイにそう云った。
「そうときまれば、サイちゃんも立派なおつとめ人だもの、あんきに手足を伸すところもいるわけだね」
耳のうしろから半分吸った煙草を出して、何か思案しながら豆タンの火をつけている秀太郎に、
「あの二畳あけたらいいだろう」
と云った。
「あすこなら、家のものの目も届いてサイちゃんも安心だし、十五円で三度たべて一部屋ついて、大勉強だよ、ねえ」
「うむ。――それにしても、何とかしてもう三四人、東京で働きたいって娘はないもんかね。どうだ、サイちゃん、田舎の友達でそんなのないか」
そんなことで月十五円払う話もついたことになってしまった。
サイは、婆さんに押しつけられた洗いものまで竿にとおしてしまうと、徹夜して来た眼玉の芯《しん》がズキズキ疼くような疲労を覚えた。
茶の間から掃き出したごみが葉蘭にくっついている手洗鉢の横からあがって、サイは自分の部屋の戸をあけた。便所と手洗いの間にはさまれているこの二畳はおかしな部屋で、どだい壁も天井板もないところであった。低い頭の上から、三方ぐるりと白地に紋がらの浮いた紙貼りで出来た部屋であった。おそらく素人細工のその紙貼りは、柔かくぶくついている上に天井にも横の方にも汚点が滲んでいて、初めてそこに坐ったとき、サイは鼠の小便のかかったボール箱に入ったような気がした。そして、この頃の陽気になると、その
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