此頂上にまで至らしめたるは上古蛮勇時代の遺風、殊に女大学の教訓その頂上に達したるの結果に外ならず」夫婦の生活で夫が妻を扶養するのは当然の義務だのに、妻たるものがわずかの美衣美食に飼い馴らされて人としての権利さえ自分から捨てている愚を、福沢諭吉は社会全体の進歩というところから痛歎している。「夫婦苦楽を共にするということは努々《ゆめゆめ》等閑《なおざり》にさるべきことではない」のだから、ことこれに関しては、議論して争うことも避けがたく「是れが為に凡俗の耳目を驚かすことあるも憚るに足らざるなり。」明治の精神が持っていた壮健な常識の響は福沢諭吉の言葉をとおして、これらの文章のうちにも高く鳴っているのである。
 そもそも福沢諭吉が、「女大学」を読んで、それに疑問を抱き、手控えをはじめたのは、彼が二十五歳で大阪から江戸へ出て来たときからのことであった。明治五年に「学問のすすめ」を発表して、近代日本の誕生に、大きい光を投じた福沢諭吉が、この「女大学評論」と「新女大学」とを時事新報にのせたのは、漸《ようや》く明治三十二年、彼が六十八歳で歿する僅か二年前であったということは、日本の社会の歴史のどういう特
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング