崇められ一般の教育に用いて女子を警しむるのみならず女子が此教に従って萎縮すればするほど男子の為めに便利なるゆえ男子の方が却て女大学の趣意を唱え以て自身の我儘を恣にせんとするもの多し。(中略)女子たるものは決して油断す可からず」と、熱烈周密なその「女大学評論」を著しているのは、今日顧みてまことにつきない感想を誘われる。日本の社会の習慣や男の生活を具体的に観察すれば、「我輩は女大学よりも寧ろ男大学の必要を感ずる者なり」という立場に立って、福沢諭吉は、十九ヵ条の一つ一つについて、反駁している。「女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり」「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載の憾《うらみ》と云うも可なり」そして、例えば「七去」についても、民法の条文を引用して、離婚が「女大学」にいわれているような条件で成り立つべきでないことを説明している。益軒の「女大学」は、あらゆるところで、女は夫に仕えて云々という表現をしているのだが、福沢諭吉の開化の心は、主従関係、身分の高下をあらわしたそういう表現が夫婦の間にあることに耐え得ない。「我輩の断じて許さざるところなり」「婦人をして柔和忍辱の
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