、あらゆる贅沢と放埒にふけった例もあった。西鶴の小説が語っているような有様であったから、近松の浄瑠璃が描き出しているような情の世界があふれていたから、それへの警告として、警世家の言葉として益軒の「女大学」をふくむ十訓があらわれたというのも一つの見かたではあろう。だが、近松の浄瑠璃にうたわれる女主人公たちの悲しい運命に涙をおとして当時の女がききほれたのは、ただ当時が華美で音曲一般が流行したからばかりではなかったろう。やはり、「女大学」が天下の至言として流布された、そのような社会のとざしのなかに生きなければならなかった女の切ない境遇、その悲劇が芸術化されたからこそ人々の袖をしぼらせたのであったと思う。
日本でこのような「女大学」が現れた十八世紀のイギリスでは、女のおかれている事情を自分たちの努力でましなものにしようとしてモンタギュー夫人が率先して、二世紀も後に日本へその名がつたわった「青鞜《ブルー・ストッキング》」がすでに組織された、ということも、何か私たちには忘れられない。
ところで、この益軒の「女大学」を、明治の偉大な啓蒙学者であった福沢諭吉が読んで、「女大学は古来女子社会の宝書と
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