説いているのである。
 男の社会的な習慣をそこまで高めてゆくために、ではどのような婦人の積極性が承認されているかというと、非常に興味あることには、その点に向うこの「新女大学」の著者の態度は、一貫して女の側としての妥協性の要求に終始している。男は男として、もっと良人教育をされなければならない。しかし女としては、と女に向けられた面での言葉は、決して四十何年か前、福沢諭吉が気魄をこめて女子を励ました、そのような人間独立自尊の精神の力はこめられていない。貝原益軒の「女大学」を評して、常に女に与えられている「仕える」という言葉を断じて許さずといったのは諭吉であったが、菊池寛氏の「新女大学」には、良人に「よく仕え」と無意識のうちにさも何気なく同じつかいかたがよみがえらされて来ている。歴史をくぐるこの微妙な一筋の糸はそもそも女の生活のどこにどこまで縫いつけられているのだろう。
 婦人に性的知識が欠けていることから生じる不幸について。恋愛に処する道について。職業婦人としての社会的進退について。四十年の社会の推移は、第二の「新女大学」に、おのずからこれらの項目をふやさしている。けれども、たとえば良人の貞
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