「……これから伯母さんの家へかえったってつまらないし……あなたのお部屋へでもよって行きたいナ」
「いらっしゃいよ、かまやしないから」
「うるさいんだもん……」
砂利の敷いてあるところを寮の方へゆっくり歩いて来る途中で、訳読を受持っている戸田がむこうから来た。何かの帳簿を二冊ばかり交織スーツの脇の下にはさみ、大きい鉢植のシクラメンを両手でもっている戸田は、宏子たちが目礼すると、ひどく砕けた口ぶりで、
「どうです、綺麗でしょう?」
そう云いながら手の鉢を持ち上げて見せるようにし、眼尻でにっと笑って、力のある足どりで行きすぎた。
「…………」
「――でも、なぜあの先生、いつもああ、お愛想がいいんだろう、妙で仕様がない」
「…………」
「三年の川原さんての、親類なんだってね」
それは宏子に初耳であった。
「そうお?」
「そうだってことだわ。川原さん、あすこの家から通学しているんですもの、それでいてなかなかあのひとやってるでしょう?」
門の外まで喋りながら宏子は登誉子を送って出た。バスを待っていると、西寮の舎監が、着流しに帯つきの姿で、四五人の予科の生徒と一緒に出て来た。かたまってバスを待っていて、
「よく気をつけて行ってらっしゃいね」
と繰返し云っている。
宏子は部屋へ戻った。同室の三輪が、衣裳箪笥の内側についている鏡を上目で見ながら、湯上りのしめった髪に丁寧なわけ目をつけていた。
「――お風呂へ入るならいそがなけゃ駄目よ」
「ありがとう、いいわ。家で入って来たから」
三輪は隅から桃色フェルトの上靴を出して穿きかえた。そうした上でもう一遍鏡の中の自分を振かえってそこを閉めると、机のところへ来て腰かけた。ずーっと腰をずらして、頭を低くかけ、
「ねえ、加賀山さん、わたし憂鬱になっちゃった!」
持ち前のすこし鼻にかかる声で云った。
「ふーん、また?」
「またってなにさ」
「だってあなたって人は朝昼晩と憂鬱がっているんだもの……」
室内に点されたばかりの灯の色が、窓硝子に美しく映って見える時刻であった。
「だって仕様がないわ、そうなんだもの。きのう環さんとシネマ見て来たのよ。あっちの学生生活を見たら、つくづく私たちなんて詰らないもんだと思っちゃった。何処に我等の青春の歓びありや」
最後の一句だけを、三輪は詩でも諳誦するような調子で英語で云った。宏子は、おこったような眼付をして、肌理のすべっこい、小鼻をつまんでつけたような三輪の顔を見た。彼女は顎をしゃくって、不機嫌に、
「そこに、ある」
フランス語で短くなげつけるように云った。
「そうよ、ここにあるにはあったって――一体ここの先生たち、みんなあっちで勉強して来たくせして、舎監学ばっかしやって来たみたいね。本当に愉快なカレッジライフなんて、きっとしたことがないのね。みんな先生になるひとばっかりでもないんだから、もうすこし感じよくしたっていいのに――学校だって、謂わばお客なんだもの、私達が……」
宏子は、この言葉で、殆どその日になってはじめて大笑いをした。
「本当よ! 私、若い時代に味えることは何だって味わいたいと思う。地方から来る学生が、みんなただ学問だけを求めて来るんだなんて思ったら随分単純だ」
「あなた、グループに入っているの、その気持から?」
三輪はそういう質問を出した宏子の顔を暫く黙って見守っていたが、やがて艶のいい桜色の顔を窓の方へ向けて、
「大丈夫よ」
と云った。
「あなたがたを裏切るようなことはしなくてよ」
間をおいて、
「私は、あなたやはる子さんと違うの。エゴイストなの。だから自分の誇りのためにだけでもそういうことはしないわ、良心のためじゃないの」
自由時間のとき、三輪はテーブルの上から新しく買って来たらしいレコードをとりあげ、
「ちょっと踊って来ない?」
と宏子を誘った。
「登誉子さんでも誘いなさいよ」
小一時間ばかり経つと三輪が、はる子と連立って来た。
「あなた、特別ここへかけさせてあげるわ」
三輪は、枕のところへフランス人形を飾ってある寝台の上に、片脚体の下へ折りこんだ形で坐っている自分のわきのところをたたいた。
「ありがと」
そのまま宏子のところへよって来て、はる子が、
「ちょっと、ハードル、ね」
と云った。
「――じゃ、都合わるかったらブラインドを下げて置く。いい?」
「三十分ばかりよ」
はる子は、骨組みのしっかりした肩を動かして窓をあけると、框《かまち》へ手と足とを一どきにかけるような恰好をし、もう身軽く外の闇へ消え込んでしまった。宏子は、変な空虚の感じられる開っ放しの夜の窓の前に佇み、闇に向ってきき耳を立てた。はる子が目ざして行った西寮のあたりから、井戸のモータアの音がして、四辺はまとまりのない低いざわめきに満ちている。三輪が寝台の上にトルコ女のように坐ったなり、両方の眉を上の方へ高く高くもち上げ、唇を丸めて下手な口笛でワルツを吹き出した。
六
次の週、宏子は家へ帰らなかった。その次の土曜が、丁度父親の誕生日であった。
宏子は、途中で花屋へまわって茎の長い薔薇の花を買い、それを持って行った。
玄関がしまっていた。ベルをならしたが誰も来ない。宏子は敷石の上に靴の踵の音をさせて、内庭の垣根沿いに台所の方へまわって見た。ゴミ箱のふたがあけっ放しになっていて、その下のところに黒い雑種の飼犬がねている。犬は宏子を見ると、寝そべったまま、房毛の重い尻尾を物懶《ものう》そうにふった。その途端女中部屋から、声をあわせて笑声が爆発した。宏子たちに物を云う時とはまるで違う、二重にわれたような手放しの笑声なのであった。
宏子は、そんな声で笑った今の今、自分に対して急にとりつくろった発声で物云いをされるのが苦しかった。そのまま、炭小舎の横をまわって、庭の木戸をあけた。人影がない。庭へ立って、二階の方を見上げながら宏子は手を筒のようにして、
「アウーウ」
と大きく抑揚をつけ呼んで見た。順二郎もいないらしい。そこの硝子をあけて、宏子は家へ上った。台所へ行って、
「今晩お父様御飯におかえりなの」
と訊いた。泰造は、一昨日から山形の方へ出張しているのであった。
「母様は?」
「晩御飯におかえりになりますそうです」
持って来た薔薇の花を、宏子は独りで活け、父の書斎へ持って行った。西洋間へ行ってレコードを暫くきいていた。それでも、宏子の心には何か落付かないものがある。宏子は、いつもより小さく緊ったような顔付をして、家じゅうをぶらついて歩いた。
自分の部屋になっていた小部屋の襖をあけて見たら、そこは雨戸がしめきりで、積み上げられている帽子の古箱の形が朦朧《もうろう》と見えているばかりであった。客間の障子をあけて見て、宏子は、驚きを面にあらわした。いつの間にか実生で軒をしのぐ程斜かいに育っていたパジの若木の黄葉が石の上に散りかさなっている。それはよいとして、はじめは燈籠の下あたりにだけあったに相違ない低い笹が、根から根へひろがって、左手の円いあすなろう[#「あすなろう」に傍点]のところまで茂っている。冬がれのきざしで、それらの笹の葉は小さいなりに皆ふちが白ずんでいる。荒々しさが地べたから湧いて迫って来るような眺めである。
宏子は、呻るような喉声を出して、腕組みをし、庭を眺め入った。子供だった時分のこの庭は、燈籠と楓との裏に狭い小石をしいた空地があり、茶室の前栽も檜葉がしげって、趣があった。自動車をつかうようになって、泰造は庭の仕切りを前へ押し出させたと同時に、庭は昔のような落付きをなくし、荒れはじめた。宏子は親たちの生活ぶりというものを考え、深い興味を感じた。彼等は、一時大勢になりそうであった子供たちのためや何かで、住居も明治三十何年かに買ったままの部分へ、どしどし新しく洋間だの二階だのをつぎ足さして行った。一つの家だが入口と奥とでは東洋と西洋との違いがあり、またその東洋式に様式のちがいがあり、二つある洋間はまたそれぞれこしらえられた年代によって、流儀がちがっている。必要のために、平気で父は庭をちぢめてしまっている。そこには、家の中におさまって磨き立てている趣味とは全く反対のもの、年から年へとうつりかわる自分たちの生活で家をつかんで持っているような、傍若無人さのような、精力的ながさつささえ感じられるのである。加賀山の人たちは生活力の旺盛な人々である。その熱気は宏子によく分った。だが、会うとあれ程よろこびで輝くような父が、誕生日を楽しんで宏子が祝おうと思っていることなど自分から忘れて、すっぽかして行ってしまったところ、母もすっぽかして留守にしているところ、そういう点で、宏子は何か両親とは一致し切れない感情の肌理をもっているのであった。
なお、あっちこっちしていた宏子は、やがて入って来た廊下のところから、脱いだ時のまんま片方庭土の上へ倒れていた靴をはいて外へ出た。台所の外から声をかけた。
「夕飯にはかえりますからって――」
宏子は、本屋へ行く気になったのであった。
一高の横手の通りは、本郷を貫く横縦の通りの中でも最も不便で不愉快な路の一つである。宏子は、歩道のない路を行き交う自動車に悩まされながら、大通りへ出て、三丁目の方へ向って行った。本屋のある側にうつろうとして、宏子が車道の空くのを待っている時であった。むこうの側の車道をつづいて二三台来たタクシーの一番前の横窓から、ほんの一瞥母によく似た女の顔が目を掠めた。見直した時にその車は、もう遠のいてしまった。
宏子は、本屋へ入ると、そのことなどは忘れて、少し上気せた顔付になり、熱中して見て行った。この前、手あたりばったりのように買ったトルストイの新しい角度からの評伝が面白く、文学というものが別な光りに照らされて宏子の前にあらわれた気がした。そういう、文学についての本が欲しい。それには、はる子も大して知識がなかった。宏子はプレハーノフ「文学論」ファジェーエフ「壊滅」という二冊の本を買った。
今度は玄関があいていた。沓ぬぎの上に、母の草履と並んで男靴が揃えられてある。
「お客様?」
「田沢さんが奥様と御一緒にいらっしゃいました」
「…………」
「あのお客様と西洋間にいらっしゃいますから」
そっちへ行かず、宏子は居間の方へ入った。
「申上げましょうか」
「いい、いい」
さっき往来で見たように思った母の横顔の印象が甦って来た。田沢の来ているのが田沢の側からの偶然というばかりではないように思え、宏子は自分の推測がそんな風に動かされるのが辛かった。この間の晩、夜中に起きて物を書いている宏子のところへ来た時瑛子は泰造が田沢の出入りについて感情を害していて困ると娘に訴えた。瑛子はその時、
「父様だって、正田さんの細君が来た時は、一遍入ったお風呂にまた入ったりなすった癖に」
と、何年か前、宏子がうろ覚えに知っている外国帰りの夫人の名をあげたりして、苦笑した。父様だってというのは変よ、その時宏子はそう云った。
瑛子はどちらかというと大きい声で物を云うたちであった。それだのに、今客間は、ひっそりしていた。宏子は、不自然な気がして、苦しい心持がつのり、いっそ帰ってしまおうかと置時計の方を見た。その時間からではもう寄宿の食事もなかった。
洗面所へ行って、宏子は髪をかきつけながら、明るい鏡の面に映っている沈んだ自分の顔を検べるようにじろじろと永い間眺めた。自分は嫉妬しているのであろうか。宏子にはそう考えられなかった。宏子は田沢が始っから好きでなかった。宏子さんがどうこうと田沢が云ったと批評らしい言葉を瑛子がつたえると、宏子はよく、
「ふうむ」
と云ったきりであった。田沢はたしかに泰造とも、順二郎とも、宏子とも、瑛子自身とも違った部類の人間であったが、その違いは、ましなもので異っているのだと宏子には思えなかった。ドイツ語だの、哲学だので外側から身ごしらえしている。人為的人間。宏子は日頃そう思って、自分から進んで会おうとさえしなかった。寧ろ軽蔑を感じているものに、瑛子が、惹かれているように
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