思う」
 はっきりとした調子で云った。
「自分が生れて、育って来た中にばっかりいたんじゃ、そこがどういうところか見えないもん――私はその点で大変よかったと思ってるわ」
 宏子の顔に、幾分遠慮がちな、しかし知りたい気持を制しかねる表情があらわれた。
「順ちゃんのようなひとは、これまで一遍も家から出たいなんて思ったことはないのかしら……ここの生活がそんなに自分と調和してる? そこが私には不思議なの」
「どっからどこまで調和してるなんて、そんなことないさ。だって……」
 言葉をかえて、順二郎は続けた。
「そんなこと云や寮だって同じじゃない? やっぱり人間がいるんだもん――僕、場所より自分の気持が主だと思う」
「じゃあね、順ちゃん、こういうことはどう? 順ちゃんは東京高等へ入ったお祝に、あんな温室をこしらえて貰ったわね。そういうことはどう考えてる? そういう扱い、そういう扱いをされている自分、それをどう考えている?」
 順二郎は灯の下で首をねじって、凝っと自分に注がれている姉の眼を見まもった。やや暫くして、低い沈痛なところのある声で、
「そんなに悪いことだろうか」
とききかえした。宏子は、愛情と歯がゆさとが交り合って、苦しく自分の胸の中に沸るのを感じた。
「悪いって――善悪という言葉のまんま悪いって云えるかどうかしらないけど、とにかく、そういうことは、この社会では千に一にもない特別なことだけは確かだ。そういう特別な温室、生活の温室の中に順ちゃんがいることも確かだ。あの温室を建てた金で月四五十円稼ぐ人間が、女房、子供をくわして、ざっと一年半暮せるよ」
 なお、姉の顔から視線をはなさず、順二郎は、
「僕あの温室についてそういうことはこれまで考えたことなかった」
 素直に、余り謙遜にそう云ったので、宏子は、この自分より遙かに大きい体をした弟が可哀想のようになった。宏子は、慰め、はげますように云った。
「順ちゃんが正しく暮したいと思っている気持は実によくわかってるさ。ねえ、だけれども……」
 そう云っているうちに、宏子はまた一つの疑問に出会い、自分ながらびっくりしたような眼の動かしようをした。
「順ちゃん、学校のグループには入ってないの?」
 簡単率直に訊いた。
「学生のやってる……。そういうもの勿論在るんだろう?」
 すると、順二郎は微に口元の表情をかえ、再び膝をゆすり始めた。
「…………」
「知らないの?」
 直接それには答えず、順二郎は、若々しく柔い顔の上に、真率な、苦しげな表情を泛べて云った。
「――僕、議論のための議論みたいなの、いやなんだ。めいめいが自分の利口さを見せようとして喋ってるようなのきいてると苦しくなる」
 宏子の心にも、この言葉は触れるものをもっていた。どこかでは、宏子自身の或る面について、つかれた感じもあるのであった。しかし――
「それっきりだろうか」
「…………」
「どう思う? それっきりだろうか。そりゃたしかにそういうのもいる。だけれど、本気に自分たちが書くべき新しい歴史というものを考えて努力している者だっている。そうじゃない? もし旧い時代から一歩も出ないで生きるのなら、何のために私たちは子として生れて来たのさ。何処に親より二十年も三十年もあとからこの世に出て来た意味があるのさ。キプリングがダブリン大学へ行ったときね、学生に向って第一に云ったことは、私は君等を嫉妬する。そう、深く嫉む。何故なら君達は、若いから。そう云う言葉を云ったんだって。――本当に未来は我等のものなり、だし、我らは未来のものなり、なんだと思う。だから、妥協しちゃいけない」
 やっぱり膝をゆすりながら、順二郎が、
「姉ちゃんは、よく考えている」
と云った。
「よく勉強してる――」
 宏子の爽やかな顔に赧みがのぼった。
「勉強じゃないわ。――ただね、私のここんところに」
 左の手のひらを宏子はきつく自分の胸に押しあてた。
「何かが在る。それがじっとしていないの。分るだろう?」
 姉弟は、さっきと同じ灯の下ではあるが、暗《やみ》と光とが一層濃さを増したように感じられる夜の小部屋の雰囲気の中に、暫く黙ってかけていた。
「――でも私たち三人、何て、面白いんだろう」
 人のいい笑顔になりながら宏子がその沈黙を破った。
「達兄さんはああいう人だし――順ちゃん知ってる? 達兄さんにね、いつだったか、兄さんはどんな友達がつき合いいいのってきいたら、そうだね、生活のレベルが同じのがいいなって云っていた。――順ちゃんは順ちゃんで、何しろ天使まがいなんだから、逆さで生まれた私なんかともしかしたらちがうのかもしれないね」
 二人は声をあわせて笑った。順二郎は父親の泰造が数年外国暮しをした後に生まれた子であった。瑛子は彼を懐姙したとき、丁度良人が外国から買って帰った聖母子の油絵が気に入って、その絵にあるような男の児を生みたいと朝夕眺めていたという話を、皆は半信半疑に覚えているのであった。

 寄宿へ行ってから、もと宏子の使っていた部屋が仙台の電気会社へ就職して行った達夫の荷物置場になった。今、家じゅうにきまった自分の居場所を持たない宏子は、弟の部屋を出ると、父の書斎へ入って行った。
 柱に女の能面をかけ、隅に陶器をしまった高い飾棚など置いてある室内には、泰造が消して二階へあがった瓦斯ストウブの微かなぬくもりが残っている。父用の文房具が並んだ細長い大卓とは別に、古い大理石のテーブルが屏風のところによせて置かれている。宏子はそこへ陣どった。そして、小型の原稿紙をひろげた。塾では、語学が専門であったから、西洋史なども英語で外国人の女教師が受持った。ところが、その教えかたは昔流儀の暗記一点張りで、内容が貧弱であるのと暗記の努力がばからしいのとで、学生一般から不評判であった。宏子としては、文学が好きで語学の勉強にも入ったのであったが、宣教師の女教師が、語学は地の言葉で出来るというだけで真の教養や感受性をもっていず、而も自分を何か格段のもののように振舞うことに、軽蔑を感じていた。寮でそんな話が栄えた時、はる子が、
「加賀山さん、あんた書いてよ」
と云った。
「『欅』にのせるから」
 原稿紙のまま綴じたそういう名の回覧雑誌のようなものを、特に文学好きの十五六人でこしらえているのであった。電話で、はる子が書くもの、と云ったのはこのことなのである。
 宏子は、スタンドの灯かげで気持をだんだんまとめた。自分の云いたいことが次第にはっきりして来る。それにつれ、一方で、弟の気持、考えかたというようなものが、自分のそれと何処かでひどく違っていること、或は全く別種なものかもしれないという不安なような珍しいような気が益々つよくした。順二郎の部屋を出て来る時、何心なく見たら入口の鴨居の上に紙を貼って、それにMという字の山形をきつく聳え立たせたような字で Meditation と書いてあった。それも宏子の頭にのこった。自分に一つの標語を与え、それで生活をきびしく律して行こうとする気持は、宏子にも理解されるのである。だが Meditation――そんなものは、夏休み前の順二郎の部屋の鴨居には貼られていなかった。
 三枚あまり書いた時、外からそっと書斎の扉をあけた者があった。
「誰がいるのかと思ってびっくりした」
 思いがけなく、それは瑛子の声であった。宏子は、自分の書きかけていたものを、テーブルの上でそれとなく裏返し、振かえった。
「――寝てらしったんじゃないの?」
 瑛子は曖昧に、ああと云い、
「お前こそ、どうしたの? 寒くないかい」
 卓子によって来て見て、
「おや、何か書いてたんだね」
と云った。
「うん……何しろノーベル賞金だからね」
 まだ心の半分はあっちにある風で、宏子がそう答えた。瑛子は、どうして女に医学博士はあるのに文学博士は出ないだろう。お前も文学をやる位なら、ノーベル賞金をとる位の意気でおやり、とよく云っているのであった。
 瑛子は、娘の冗談に笑おうともせず、両方の袂を胸の前でかき合わせるようにしてストーヴの前のソファにかけた。浴衣をかさねた寝間着の裾が足袋の上にやや乱れかかっていて、古い棒縞糸織の羽織をきている。スタンドの遠い光線からも少しはずれると闇へとけ込む場所に、黙って腰かけている母の姿には、宏子の注意をひきつける、真実なものがあった。暫くその様子を眺めていて、宏子はやさしく、
「ストウヴつけましょうか」
と訊いた。
「そうだね」
 つづいて天井の燈をつけようとしたら、瑛子は、
「眩しいからおやめよ」
と止めた。母は涙をこぼして泣いているのではなかった。けれども、何か苦しそうである。心が苦しそうに思われる。その苦しさが肩や頸のあたりに現れている。それは、一種肉体的な苦痛の感じを宏子の中にもよびさますのであった。
「――眠れなかったの?」
「――お父様のやきもちには困ってしまう……」
 瑛子は、考えにとりこめられている口調で、床の上に目を落したまま云った。

        五

 駅はごく閑散で、たまに乗り降りする客の姿が、改札口からプラットフォームの上にまですいて見えるようなところであった。朝夕だけ、どっと混み合い、田舎っぽいバスが頻りに駅前を出たり止ったりした。そして、一つの学校の遠足のような趣に、同じような年頃の、同じような通学服姿の女学生達の、おとなしい、だが圧力のこもった波をその辺に溢れさせた。その時刻がすぎると、バスまでも緊張をゆるめ、僅かの乗客を車内にいれて、かるい後部をのんきにふりながら、短い駅前の町を抜け、軽鋪装をほどこされた道を桑畑と雑木林の間へ進んで行った。
 町を出てからは、塾の前に停留場があるきりであった。近辺には人家がない。一本道を更に余っぽど進んだころ、畑中に赤いエナメル塗の看板を下げた自転車屋の新開の店が目に入り、バスは右に折れた。そこで左右に年経た欅、樫、杉の大木が鬱蒼と茂り、石垣の上に黒板塀、太い門柱には改良蚕種販売、純種鶏飼養販売などの看板の出た川越街道へ合するのであった。
 この街道の古風な、用心ぶかい表情は、洋服を着た四百人ほどの娘が営んでいる生活とは全く没交渉であるように見えた。僅に地主の次男が出した文具店が一軒あり、その店からは主家に非常ベルがついていた。古くからの駐在所も角にあり、紫メリンス着物に白エプロンをした細君が、縞の敷布団を裏の空地で竹竿にほしているのが、往還から見えた。そういう界隈にまでは、塾の鐘の音も響かないのであった。
 二日の休みの後なので、月曜は、どことなくちがった気分がある。発音記号での書取りの時間に、宏子はその機械的な録音作業をいつもより沢山間違えた。
「ミス・加賀山、私はあなたがもっと注意ぶかく出来るのを知っていますよ」
 栗色の服を着たミス・ソーヤーに云われた。時間が終ると、隣りの席にいる杉登誉子が、
「あんた、きょう|青い月曜日《ブルー・マンデエイ》ね」
 小さく赤い唇で、秋田訛を云った。宏子は、唇をへの字のようにしてうんうんと頷き、連立って図書室の方へ行った。廊下の突当りの迫持《せりもち》窓から一杯の西日がさし込んでいる。そこで、はる子を中心に三四人かたまっていた。
「あなたどこんところ使うの? かち合っちゃうと駄目だから」
「あら、私そこをねらってたのに……」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
 ぷっつり切った髪の切口を青いスウェータアの背中で西日にチカチカさせながら、忍び声をして押しあっている。宏子が近づくと、はる子は黙って手にもっていた本の表紙を伏せて見せた。何とかいう文学士の「詩歌にあらわれた自然観」という題であった。宏子は首をすくめた。
 学生に一番苦手なのは英作文の宿題であった。こまると、誰かが日本文の種本を見つけたのを、ひっぱりあってところどころ利用して翻訳し、間に合わせることがあった。外国人の教師は日本語の本はよまなかったから、通用しているのであった。
 宏子は、図書室へ入り窓際のところに坐って、暫く仕事をした。帰りかけると、はなれた机にいた登誉子もその様子を見て一緒に出て来た。

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