ます」
 腕の大きい動かしかたで重吉は左手で帽子を深くかぶり直すようにしながら、黙ってその金包みをズボンのポケットに入れた。
「――この前のとき、配布の助手を見つけることになっていたが、どうなった?」
「一人はあるんです」
「メンバアかい?」
「ええ、割かた近ごろ入って来たひと。同級なんです。市内にうちのあるひとがいいんだけれど、私たちんとこ、通学のひとは比較的むずかしいんです。きっと、学校とうちと生活が別々で、うちへ帰ると家庭の気分にまぎらされちゃうのね。大体云うと、私なんだか東京で生れて、ずっと学校も東京でやって来た学生って、あんまりがっちりしてないみたいな気がするんだけれど」
「…………」
 重吉は濃い眉と睫毛とを一緒くたにして一寸しばたたくようにして考えながら、黙って歩いていたが、はる子の云ったことには直接戻らず、
「新しく見つけたのは、どういうのかね、通学?」
と訊いた。
「いいえ、やっぱり東寮のひと。でもうちは向ケ丘辺にあるんです、加賀山宏子って――うちは中ブルだわ」
「――よさそうかい?」
 はる子は首を傾け、考え考え、
「ああいうの、どういうんだろう」
と云った。
「学校では文芸部に入っているんです。文学少女みたいなんだけれど、どっかちがうところもあるし、とても読書力はあってね、こないだゴールスワージーの小説の批判を書いたのなんか、みんな面白がったわ。――でも、政治的には大して高くないと思うんです。……誠意はあるからいいと思うんだけど」
 表通りには夜店の手車が集りはじめた。デパートの買物包を下げてバスの停留場に急いでいる人むれ、または、これから日曜の一晩を楽しもうと新しい勢でくり出して来た連中で、鋪道の上は益々混雑した。はる子は、例の右肩をよけいに振る大股な歩きつきで人波をよけながら、それでもうっかりすると重吉から引離され、人ごみにまぎれそうになるのであった。交叉点のところで、重吉は後から来たインバネスの男に押されるようにしながら歩みをとめ、腕時計を見た。
「一寸腰かけようか」
 はる子が頷くと、重吉はすぐそばの硝子戸を押して、ひろい真直な視線で繁華な店内のざわめく光景を見わたしながら、派手なチョコレート製の塔が大きい飾窓に出ている喫茶店に入って行った。入れ違いに人が立ったばかりで、まだテーブルの上にソーダ水のコップが並んでいる一つのボックスを見つけ、重吉は自分の方から、出入口が見られる側に席をとった。
「御註文は――」
「君なに?」
「私コーヒー」
「じゃコーヒーを二つ」
「ツー、コーヒー」頭のはじに白い帽子をのっけたボーイが機械的に声をはりあげて呼んだ。はる子は重吉と顔を見合わせ、何ということなくにやりとした。
「ああこないだ話していた本ね――書翰集、一冊あったからまわしとく」
 それはローザがリープクネヒトの妻にあてて監禁生活の中から書いた手紙の集であった。初歩的な女の学生の間にそれは愛情と亢奮とをもって読みまわされていた。はる子が一冊持っているのは、綴が切れるほど手から手へうつっているが、それだけでは足りないのであった。ポケットから本屋の包紙に包んだのを出して、重吉はそれをテーブルの上に置いた。
「もし目に入ったら、君の方でも買っとくといいね。――あれも入ってるからそのつもりで」
「ええ」
 はる子は羽織の片肱をテーブルの上に深くかけ、片手でコーヒーをかきまわしている。そうしながら、桃色と白のカーネーションが活かっている花瓶のわきに置かれたその紙包を、短いような、さりとて決して淡白ではない眼差しでちらりと見た。
 重吉は簡単な言葉で、渡した文書について説明した。それから、もう一度腕時計を見て、
「じゃこの次はいつにしようか?」
「私の方は土曜か日曜なら」
「毎週じゃいけないだろう。――定期は一週間おきにということに大体きめておこうか。それでいいだろう?」
「ええ」
「いろいろいそがしいだろうけれど授業はやっぱりちゃんと出るようにね、やっぱりそういう点でも信頼がなくちゃいけないから……」
 重吉はこまごまとした注意を添えて、次に会う場所と時間とをはる子に教えた。最後に勘定書をとりあげて重吉が立ち上ろうとした時、はる子はあわてたように、
「ああそれはいいんです」
と云った。
「私が払うから」
 さっき往来で歩きながら浮べたと同じような自然な微笑が再び重吉の顔の上をてらした。彼は青年らしく健康な歯並を輝やかしながら云った。
「いいよ。この位平気だよ」
「――じゃ、これ」
 はる子は、カーネーションの花かげに置かれた薄い本包をしっかり脇にはさんで自分も立ち上りながら、自分の分のコーヒー代を出し、着物のゆきたけから伸び伸びした腕がはみ出ているようなぶっきら棒ななかに、若い娘らしい袖口の色を動かして重吉に渡した。

        四

 灰色っぽい漆喰壁のところに横木が打ってあって、そこから小型黒板が下っている。白墨を丁寧に拭きとらない上から、乱暴に、渋谷、谷田様より午後一時電話と書生の字でかいてある。その横の壁のうんと高いところに銀三四九〇とアラビア数字で白墨書きがあり、気がついて見ると、その電話のまわりには、謂わばところきらわず、がさつな事務所にでもありそうに番号変更の紙を貼りつけたり、番号をかきちらしたりしてある。板の間の天井から燭光のうすい電燈がついていて、その下を行ったり来たりしている宏子の姿を、鈍く片側のガラスの上に映している。宏子の心持の九分は、電話のかかって来るのを待っているのであった。休日にかえって来る時、はる子が、今日夕方の六時までに万一電話をかけなかったらばと云って頼んだことが二つあった。電話がかからなければ宏子は大急ぎで寄宿へ戻らなければならなかった。そして、はる子と約束したことを、必ず果さなければならないと思っているのであった。はる子は、それを頼んだ時、同輩ではあるけれども、或る方面での経験では先輩であるという確信をはっきり瞼のくぼみめな顔にあらわして、
「あなた、割かた自由に家の出入りをやってるらしいから頼むのよ、いいでしょう?」
と、もとより宏子が拒まないことを信じている口調で云った。行きかけたのを小戻りして、
「――責任もってね」
 更めて小声で囁《ささや》いて去ったのであった。
 宏子は、ベージュ色のスウェータアの下のところを、組み合わせた手へ巻き込むような工合にして、頭を下げ板の目かずを数えるように靴下の上にソックスを重ねてはいた自分の足のたけだけを一直線の上にかわるがわる踏んで狭い場所をゆきつ戻りつしている。扉一枚の彼方の台所は忙しい最中であった。物を刻む庖丁の音に混って、
「アラア、ちょいと八百金まだなのオ」
という声がする。
 電話を待つ緊張と、畳廊下での親たちの諍《いさか》いの印象とが宏子に人と喋るのがいやな心持を起させているのであった。宴会があって、泰造は一時間ばかり前出かけた。それより前に田沢は帰った。瑛子は、田沢が来たとき着かえた観世水の羽織を着て、食堂兼居間のおきまりの場所に、大きい座布団を敷いて坐っている。何だか宏子は、そのわきに坐っていたくないのであった。非常に漠然とした、だが重い後味が宏子の胸にのこされた。父親がむき出しに娘の前もかまわず憤っていたことより、母が理窟はともかく平常のように堂々と正面からそれへ怒りかえさず、変に滑らかになって、わきの方からどっかを下へひっぱるように物を云っていた。あの時の美しく艶やかだった眼差しやひきのばした声の調子などが、宏子には、何か卑屈さに似たものとして感じられ、それと母とを結びつけると、感覚的にいやな心持がするのであった。華やかな電燈の下で、今その母がゆったりと正面に座をかまえ、白い顔に何もなかったような風で女中に物を命じたりしている。それも宏子を板の間に出す気分である。
 下げていた頭をもち上げ、若い馬が何かをうるさがって鬣《たてがみ》をふるうように宏子が柔かい断髪をふるった途端、電話のベルが鳴り立った。
 待ちかねていたので、却ってどきりとした顔で、宏子は電話口にとりつき少し背のびをし、
「もし、もし?」
 地声より低い声を出した。
「ア、もしもし、そちらは小石川三三七五番ですか、公衆電話です」
 遠くの方でジリーンと音がし、お話し下さいという交換手の声が終るや否や、
「もしもし」
 早口に云う宏子の声と、
「あ、あんた?」
 そういうはる子の稍々《やや》ざらっとした重みのある声とが両方から一度にぶつかった。
「ふ、ふ、ふ」
 はる子はうれしいことがあるように見えない電話の中から笑った。宏子は、
「どうだった?」
と、送話口へ一層近よった。
「これから帰るところなの?」
「ええ、これから省線へのるところ。そっちはどうしているの?」
「――ふーん」
「じゃ、あした」
 はる子が事務的な調子をとり戻して電話をきりかけた。
「あしたまでに、あれ、書くもの、忘れないでね」

 順二郎が立ち上ると、宏子は、
「ちょっと、くっついて行ってもいい?」
 下から弟の顔を見上げながら訊いた。
「勿論、いいよ」
 絣の筒袖を着て、黒メリンスの兵児帯を捲きつけた大柄な順二郎が、一段ずつ階子をとばして登ってゆく。うしろから、宏子は片手で手摺を握り、わざとその手に重心をもたせて体を反らせるような恰好をしながら、ゆっくり、ゆっくり跟《つ》いてゆく。順二郎の部屋として特別なところがあるのではなかった。二階の客間の裏に水屋がある、その北向きの長四畳を使っているのであった。
 手前の座敷を暗がりで抜けて、順二郎は小部屋のスウィッチをまわした。左光線になるような位置にデスクが置かれている。うしろの壁にオリーヴ色の絹を張った硝子戸つきの本棚があり、今、狭い室の内を照し出した電燈の白い笠には、眩しいと見えて、ノートの紙を丁寧に長方形に截ったのが短く下げられてある。
 宏子は閾のところへ立ったまま、
「少しさむいけど、落付くね」
と、珍しげに四辺を眺めた。電燈を紐でひっぱってある鴨居の釘のところに、スケッチ板に油で描いた曇天の海浜の絵が額縁なしに立ててある。デスクから目をあげた時いい位置ではあるが、宏子にはその絵の灰色と淡い黄と朱の配色が寂しく思われた。
「その絵だれの?」
「さあ、よく分らないけれど和訓さんのじゃない?」
「北向なんだから、もっと暖い色のを見つけりゃいいのに。――あるんだろう? 探せば」
「刺戟が少ない方がいいから、これでいい」
 宏子は、隅によせかけてあった古い三脚椅子を見つけて、その上に腰かけた。
 自分用の廻転椅子に姿勢よくかけた順二郎の顔は灯の真下にある。宏子はすこし翳《かげ》をうけて、ずっと低いところにその顔を浮き出さしている。おそ生れと早生れの二つ違いである姉弟の顔だちは、そうやって一つ灯の下に並んだところを見ると、その間におのずから微妙な違いがあった。同じような丸顔で、同じように特色のある上唇の線をもっていながら、順二郎の表情全体には快活さにかかわらずどことなく奥へ引こもった印象が漂っていた。宏子の碧っぽく澄んだ眼や口許には、見たいものは見、云いたいことは云わして欲しいというような一種熱っぽいものが、さっぱりした皮膚の血行とともに湛えられているのであった。今晩は、宏子のその眼の裡に苦しげな色がある。
 ノートや辞書がきちんと整理され、デスクの向板のところには高校の時間表を細長い紙に書いて貼りつけてある有様を宏子はしげしげと眺めていたが、
「順ちゃんは几帳面だなあ」
と、歎息と感服とを交えたような声で云った。そして、
「ね、順ちゃん」
 弟の顔を見上げ、訊ねた。
「あなた何故寄宿へ入らないの?」
 順二郎は、体の大きさに合わしてどっちかというと子供っぽすぎて見える柄の紺絣の膝をゆすりながら、
「――家から通えるんだもん」
「そりゃそうだけどさ――順ちゃんは寮生活をして見たいとは思わない」
「特別やって見たいとは思わない」
 宏子は暫く黙って、自分の断った髪のうしろを撫でていたが、
「私はそとへ出てよかったと
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