て見れば人生なんて寂しいものだ。結局はひとりさ」
 袂から畳んだ懐紙をとり出し、瑛子は涙に濡れた眼をかわるがわるゆっくりと抑えた。天井からさす燈火の工合で、瑛子の手が動くたびに、右の中指から大きいダイヤモンドの、厚みのある、重い、焔のような紫っぽい閃きが発した。
 泰造は書斎へ去り、宏子は暗い険しい目付で、凝ッとその光を見つめていた。
 ダイヤモンドの冷たいギラギラした美しさも、母の言葉も、順二郎の柔和な訴えも、宏子には皆苦しいのであった。

        二

 雲のない真昼の空へ向って、真直午後のサイレンが鳴った。それに和して、あっちこっちでいろいろな音色を持ったボーが響きだした。今まで静かだった空と日光の中が一時賑やかのようになった。裏通りを、豆腐屋が急に活を入れられたラッパのふきかたをして通った。ちっとも風のない日であるが、それらの生活の音響に目を醒されでもしたように、突然庭の楓、樫、槇などの梢が軽くゆれ、銀杏の黄色い葉が、あとから、あとから垂直に下の黒い地面へ落ちて来た。
 大都会の真中で、瞬間の自然にあらわれたこの身ぶるいを宏子は興ふかくカン※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ス椅子から眺めた。
 自然に結びついていると云えば、宏子がいる塾の寄宿舎はそれこそ武蔵野の桑畑と雑木林の只中に埋っていた。然し、そこには、数百人の若い女の声々を頭のすぐ上では澄みわたって反響させ、すこし高くとおいところでは一種異様な手応えなさで吸い込んでしまう宏闊な空と、濃い液体のようなその辺一帯の空気をかき乱して軍用飛行機練習のプロペラの唸りがあるだけであった。震災後のバラック建てを本建築にするとき、東京市内の多くの専門程度の学校が地価の差額を利用して、府下の遠いところへ敷地を買いなおし移転した。宏子の塾もその一つであった。市内からもまわりの村からも隔離されて雑木林の中にある環境は、学生生活にとって様々の不利、経営者には便宜である不便に満ちているのであった。
 よそに行っていて不図わが家の情景が髣髴《ほうふつ》する、そんな鮮やかさで、西日を受け赤銅色に燃え立っている欅《けやき》の梢や校舎の白い正面。単調に、遠くからポッツリ人の姿を見せる田舎道の様子などが、宏子の心に甦った。裏庭では、さっきから順二郎が植木屋と喋っている声がしている。ほかに呼びようがないから、私のうち、と宏子も呼ぶ家。そこに充満している両親の生活。それは宏子を引きつけ同時に惹きつけたよりもっと複雑なもので宏子を弾きのかす。だが、塾が云うところない生活というのではもとよりないのである。
 この時、カン※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ス椅子の背に頭をもたせかけ、スウェータアの胸の下でゆったり二つの腕を組み合わせている宏子の真面目な若い顔に、皮肉と無邪気な悪戯っぽい可笑《おか》しさの混りあった笑いが浮んだ。今朝になって、瑛子は昨夜むしゃくしゃまぎれに、宏子をひと[#「ひと」に傍点]も来ているのにと云ったことを少し後悔しているらしかった。洗面所の廊下で起きたばかりの宏子とすれ違った時、瑛子は優しさのある眼付で、
「どうだい? 眠れた?」
ときき、返事を待たず、
「お前、私の洗面器をつかいやしなかったかい?」
と尋ねた。宏子は、
「いやよ、今起きたばっかりじゃないの」
と答えたが、母の気持を考えると可笑しかった。何か宏子に言葉をかけようとした突嗟《とっさ》にやっぱり母らしい文句しか出ず、ただそれを今朝は、
「おや、ほんとうにそうだったねえ」
とおとなしく結んだ。そこを考えると宏子は滑稽で、また腹立たしいのであった。
 裏庭のボイラー付温室は、順二郎が高等学校に入った祝いに瑛子が造ってやったものだ。土蔵との境の木戸があいたりしまったりして、やがて順二郎の友達らしい青年のやや癇高なところのある声がそこから聞えて来た。
「小田んところの兄さんも温室やってるんだね、こないだ小田と見物して来た、とてもデカイや」
「本職なんだろう?……ああ、そうそう、こないだ有難う。お父さんもう帰った?」
「ああ電報が来て帰っちゃった」
 きっちり襟元を合わせて絣の角袖を着、袴をつけた吉本も一緒に、茶を飲んだ。瑛子は、
「お父様、この方が吉本さんですよ、この間順ちゃんをホテルに呼んで下さった――」
と改めて紹介したりした。泰造が吉本の家庭の様子などを、いつとはなし地になっている社交的な口ぶりで訊ねると、吉本は、滑らかな調子で、別にばつをわるがりもせず、一定の社会的地位が対手に推察されるように、要領よい返答を与えている。
 瑛子には、順二郎のこの交友が気に入っている、それは瑛子が吉本の一寸した言葉にも愉快そうに笑う、その華やいだ調子で分るのであった。
 女中が、そこへ入って来た。丁度宏子のよこのところへ膝をついてとりついだ。
「奥様、ただいま築地の雄太郎さんがお見えになりましたが……」
「あなた」
 瑛子が、いかつい声になって云った。
「雄太郎が来ましたそうですよ、この間っから云っている学費の明細書を、今度こそ出すようにおっしゃって下さい。ようございますか?」
 そして、こっちへ向いたまま、
「日本間へ通して」
と云いつけた。
「ほんとにどこでもいろいろな身内の厄介がありましてねえ。――おうちなんかでもお世話でしょうねえ」
 吉本は、きちんと坐ったままただ笑っている。程なく紅茶茶碗を一つだけ盆にのせ、お砂糖を、と入って来た。その茶碗を瑛子が見た。
「おや、レモン入れたのかい?」
 不服そうに、居あわす者にきこえる位の声で云った。その場の皆の前にあるのはレモン入りの紅茶である。瑛子は顰蹙《ひんしゅく》した声で云った。
「レモンなんぞ入れないだってよかったのに――」
 偶然、自分の茶碗からレモンの切を受皿へどけていた宏子は、茶碗の中を見たまま顎のところまであかくして、暫くは顔をあげなかった。
 間に二人ほど泰造の事務的な来客があった。四時頃、宏子が腕時計を見ながら階段下を来かかると、畳廊下のところに、中途半端な立姿で、羽織だけ着更えた瑛子が佇んでいる。隅の衣裳箪笥の戸をあけて、泰造がこちらへ細かい大島の背中を向け、中に吊ってあるモーニングの内ポケットから紙入れを出しかけているらしいのであったが、その手つきは焦立ったように動いているにかかわらず、いかにもしないでもいいことを手間どってしているような風である。瑛子が、声を低め、熱心に云っていた。
「だってあなた、そんなことは出来ませんよ、失礼じゃありませんか」
「いや失礼じゃない」
「これまで家庭的にやって来ているのに、今急に――」
 傍を通りぬけようとする宏子を、
「ちょいと、宏ちゃん」
 瑛子は、当惑と抑えた腹立ちと更に際立って一種のつややかさが動揺している仄白い顔の表情で宏子を呼びとめた。
「お父様にゃ困ってしまう。折角田沢さんが見えたのに、どうしても会わないっておっしゃるんだよ」
「…………」
 唐突ではあるし、その場の空気はただならないし、若い宏子には、何と云ってよいのか分らなかった。
「あなたのようにそういきなり感情的になったって――わけが分りゃしないじゃありませんか」
「訳はよく分ってるじゃないか。俺は彼奴が不愉快だから、会わん」
「そんな大きい声を出して」
「聞えてもよろしい。俺は絶対に会わん。そういってくれ」
 その畳廊下からは、八つ手の花の一粒一粒が刺さるような白さで見え、暗くなりかかった植込越しに、隣の家の子が腰につけて部屋の中を馳けているらしい鈴の音も、聞きとれるのであった。

        三

 殆どこれと同じ時刻に、有楽町の駅を出た一団の人群にまじって、一人の若い女が朝日新聞社の横から、トラックをよけながら数寄屋橋の方へ出て来た。
 橋の上の広くもない歩道は、青や赤のゴム風船を片手に子供の手をひいてそろそろ歩いている夫婦ものや、真新しくそりかえった足袋に派手な草履をはいた若い女づれの一組などで日曜日らしく混雑している。
 日本服を着なれないぎごちなさで、白襟をきつく合わせているその娘は、大股に、すこし右肩をよけい振るような膝ののびた歩きつきで人通りの間を尾張町へ出た。そして、少し行って右側にある大きい文房具店へ入った。地階で、帳面を一冊とペン先とを買い、段々をのぼって、いろんな種類の舶来おもちゃが並べられている陳列棚を眺めはじめた。赤い頸飾りをちょこなんと結んだ一匹の黄色い仔猫が、日向ぼっこをしている自分の背中へとまった蠅を、びっくりした目で見かえっている陶器の置物があった。その蠅がいかにも精巧に本物らしいので小さい猫の驚きに実感がこもり、同時に本物なのかしらと思わず見直すところに、製作者の軽い笑いがかくされているらしい。その娘も、白粉をつけていない、真面目な顔つきに、瞬間おやという表情を浮べて、その蠅に注意をひかれた。
 この時、陳列棚のむこう側から、年に合わせては地味な縞背広を着た一人の背の高い青年が、やはり並べられている品物を眺める風でぶらりと現れ、娘が仔猫を眺めていると同じ棚の横手に佇んだ。
 硝子に映った人影で娘は顔をあげた。しかし、近づいた青年を別に見直すでもなくその棚の前をはなれ、今度は急がぬ歩調ながらどこへも立ち止らず出口の方へ向った。
 つづいて、その店の大きい紙包みを下げた女連れがゆき、あとから背広の青年もそこを出た。シーソー遊戯の玩具を売っている露店の前で娘はその青年と肩を並べ、二人はどちらからともなく新橋の方角へ動きだした。数間歩いて、一つの横通りを突切るとき、青年がはじめて口を切った。
「寄宿の方はいいのかね」
「土曜日曜は平気だわ」
「相当みんなこの辺をぶらつくんだろう?」
「大抵新宿」
 青年はこれも目立たぬ鼠色のソフトをかぶった頭を心もち右へ傾けるような癖で娘の方は見ず暫く黙って歩いていたが、やがて、ゆったりした口調で、
「ここを曲ろうか」
 人通りの劇しい表通りを左に折れた。娘も素直にそれにつれ、羽織と対の大島絣の裾を学生っぽくさばきながら並んで足を運んでいるのであったが、いかにもよそ行きという風に、ほんのすこし紅をつけている彼女の口許には、何か云おうとしてうまく言葉の見つからない焦燥のようなものがあらわれた。山本はる子という本名のかわりに、背が割合高いから高井がいいだろうと笑いながら仕事の上での呼名を彼女に与えた兄の静岡高校時代の親友、佐藤重吉という代りに太田と呼ぶような全く新しい組織的な関係でこうして折々会うことになった重吉に対して、はる子は一つの聞いて貰いたい自分の感情をもっているのであった。
 赤い毛糸の腹巻きをして上体を左右にふりながら岡持ちを片手に鮨屋の出前が狭い鋪道を縫って走って来た。それをよけるはずみのように、はる子は熱心な顔つきのまま、
「でも私うれしいんです」
 いきなり、率直に並んで歩いている重吉に云った。
「東京へ来たら、きっとこういうことがあるだろうとずーっと思っていたんだから……」
 当時左翼の波はひろく深く学生生活の内部へ滲透していた。はる子は兄の「戦旗」を女学校の上級で読んだ。意識をもって兄のために使いの役をした。塾へ来てから研究会の積極的な一員で、救援会と「戦旗」配布の活動を受持つようになったのであった。
 はる子は、気象のあらわれた一種の早口で更に自分の云った言葉を補足した。
「勿論個人的な意味じゃなしに――わかるでしょう?」
 そして、顎のふっくりくくれた、割に上瞼のくぼみめな顔を微かに赧らめて微笑した。その修飾のない言葉と笑顔とが、重吉の大きく緊った口元をもゆるめた。彼は、
「――よくわかるよ」
 そう答えて、非常に印象的な笑顔をした。彼の一見いかつい眉つきを破って、内部に湛えられている情感的なものが輝いて流露する、そんな笑いであった。
 はる子は、歩いている足はゆるめず黒地に赤をあしらったハンドバッグをあけ、小さく半紙にくるんだ金を出して、重吉に渡した。
「mの方は、まだあんまり大衆的に行かなかったんだけれど。――誌代はちゃんとあり
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