樹蔭雑記
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紐育《ニューヨーク》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)蠢くのを止え[#「止え」に「ママ」の注記]る事は出来ない。
*:不明字 底本で「不明」としている文字
(例)滑稽に**しながら、
−−
六月二日
静かな快い日である。朝起きて、下の郵便局に行って見ると、抱え切れない程の小包が来て居る。皆日本からだ。仕方がないから、又家へ戻って、Aを呼んで半分ずつ抱えて帰る。
此の毎朝起きて着物を着るとすぐ何より先に、郵便局に出かけて行く心持は、恐らく、誰でも、海外に生活した事のある人は味わずにはすまされない心の経験であろう。
嬉しい。仮令一枚の葉書でも、故国から来たものとなると、心持が異う。毎朝、小さい鍵で、箱の蓋を開けるとき、自分は必ず丸い大様な書体で紙面を滑って居る母の手跡を期待して居る。
自分が其那に待ちながら、同じように待って居るに異いない母へ、屡々音信をしないのは、気の毒だと思わずには居られない。
今日も、先月中に御たのみした原稿紙や本や雑誌やらが、ふんだんに届いた。よく気をつけて、こちらでは得難い雑誌を送って下さる心持は、心からの感謝である。高い本を注文しても、見つかりそうもないものを御ねがいしても直ぐどうにかして送って下さる。
親だと思う。生れたときから其那注意で育てられたのかということを、今特に強く思う。有難いのと畏しいのと一緒に心の中に蠢くのを止え[#「止え」に「ママ」の注記]る事は出来ない。
数冊の本の中に、安成二郎氏の恋の絵巻という本がある。その表題に一寸母上が何故其を送ってよこされたかが疑われた、が、目次を見て、其中に自分の事が書いてあるらしいので、送られた理由が分った。
読んで見ると、好意のある文句で、自分の未来を期待して居る文句がある。
多分母上は其を見て、私にも送って見せてやりたいと思われたのだろう。
フト心に陰がさした。
翌日読んで、思わず考えに耽った、戯作三昧の馬琴の心持を、又思い出さずには居られない。
馬琴は、何も、眇の小銀杏が、いくら自分を滅茶にけなしたからと云って、「鳶が鳴いたからと云って、天日の歩みが止るものではない」事は知って居るのである。よく分って居るのである。
けれども、けなされれば心持の悪いという事実は瞞着するに余り自明である。
其の気分を読んで、自分は思わず溜息をついた。そうだ。真個にそうである。
何に、彼那人が彼那事を云ったって、自分の生命の価値に何の損失も与える事は出来ないのだ、とは思う。又思うのみならず其を信じて疑わない。けれども、信じ安じるべきであるに拘らず、その不愉快さは依然としてドス黒いかたまりを、朗らかな胸中に一点の波紋を保って存在して居るのである。
馬琴もそうだったのかなと、思った。
そして、力を得たような淋しいような気がした。箇性の持って居る力と、人間の与えられた宿命的な(少くとも現今に於ては)本能が、ともに噛み合う事を又更に思わずには居られなかった。
その気持が、今逆に裏返って自分の上に返って来たのである。即ち、その誹謗が実質的な価値は持って居ないと分りつつ尚不快である如く、或る賞揚や尊敬は、又其の実質が如何に低いかを知りつつ、又或る淡い愉快と、由づけとを感じないわけには行かないということなのである。
小さい魂や、浅薄な動機からの追従も、物によってはそのわなにかからずにすむ。若し私が、貴方の御両親は、真に素晴らしい御金持で、と云われたと仮定して見る。此那讚辞に対して、私は元より無関心である。
私は、平静な微笑をもって、其に報い得る。けれども、此は私丈ではないと思う、どんな小さいことでも、芸術的の創作に力をそそぐ人は、彼等の作品を認められ、賞讚されたという場合に、仮令如何に其を押えようとしても押えられない嬉しさが来る。
有頂天にならないまでも、又、如何に謙虚に自分の未完成である事にハムブルではあろうとも、その「心のときめき」を、否定し尽す人はないだろう。
下らない賞讚にあって、少し頭に血が上ったのを知ると情けない。
小さい誹謗に、口元を引締めるのを知ると寂しい。
あらゆるそういう動機によって、創作のモーティブが不純になる事を畏れて、戯作三昧の主人公のように、成べく、其を耳にしないようにするべきだろうか。又如何に其等が群をなして飛んで来ようと、端然と己を持して居られる丈の自らの力の成育を希うべきであろうか。
自分は後者であり度く思う。ありたく思うのみならず、そう努力して行こうと心に思い定めて居る。
総ての事物に、合一される事が無くなり度い。
同じ日
今日は偉く暑い日である。
紐育《ニューヨーク》
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング