などはどんなだろうと思い遣った丈で汗が滲み出る。
息もつまりそうにうっそうと茂ったエルムの梢を、そよりとも動かす微風もなくて、静かに横わった湖水から、彼岸の山にかけて、むっとした息のような霞が掛って居る。何時とはなく肌がしめるような部屋で机に倚りながら、東京ももうさぞ暑い事だろうなと思う。
父上の白い洋服がやたら心に浮ぶ。暑いと云えば、毎年暑中たまらない思いをして来た須田町の午後の日ざかりを思い出す。
家々の屋根や日覆が、日没前の爛れたような光線を激しく反射する往来は、未練する跡もなく撒き散して行った水でドロドロになって、泥から上るムッとしたいきれが、汗じみた人の香と混って、堪らなく鼻をつく。
皆が電車を待って居る。学校帰りの学生、事務所をしまった人々、職人、交換手、そういう種々雑多な人々が、各自に違った汗を掻きながら、泥を白い足袋の上にハねかえし右往左往するのを思うと、今斯うやって、静かな水の辺で、電車の音もきかずに居るのは感謝すべきである。暑いと云ったりする事は寧ろぜいたくであろう。
○静かな静かな寂しさの裡に夜は更けて行った。彼女は、読みかけて居た本を伏せると、深い息をつきながら、自分の周囲を見廻した。
白地の壁紙、その裾を廻って重くたれ下がって居る藁の掛布、机、ランプスタンド、其等は、今彼女の手にふれる総ての書籍が、遠い故国の母の手元から送られたものであると同様の有難さをもって、彼の手に作られたものである。
地下室の隅から塵だらけになって引出された板、其を日に乾し、水で洗い紙に包んで、丈夫な、使い心地のいい机に仕てくれたのは彼である。
蝋燭立てと、ソッケットをうまく利用して感じのいいスタンドを作ってくれたのも彼である。彼女は、光る鋲でとめられた垂布の、深い皺の間々に、額に汗を掻いて、太い釘を打ち込む彼の白い腕を見る事が出来た。彼女は、今、彼方の部屋で、広い寝台の上に安眠して居るだろう彼の様子を心に描いて見た。
母の書を思い遣る時、自ずから、彼女の胸を満たす、無限に静穏な感謝が、鎮まった夜の空気に幽にも揺曳して、神の眠りに入った額へ、唇へ漂って行きそうな心持がした。
愛する者よ、我が愛するものよ、
斯う呼ぶ時、自分は彼という一つの明かな形象を透して、限りない尊び畏るべき人々と、いたわり憐むべき人々との心へ、自分の魂が拡がるのを感じる。
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