ヴェデキントは作家としての特質から、少年少女の性の目覚めの悩乱を、今日の感覚からみると極端まで中核におきすぎて、その点で登場する若い人物たちは動物的に性的な一面へ歪められすぎた暗い姿を現している。けれども、中学校の教育というものが、若い肉体と精神とを正当に知識的に導く力をもっていないばかりか、情操を高く明るく導く愛も喪っていて、ただ威嚇と形式上の秩序ばかりに拘泥して悲劇の温床となっていることに対する作者ヴェデキントのプロテストは今日の実感にも生きている。
「春の目醒め」では同時に家庭教育というものが通俗の偽善的な道義観や宗教観にあやまられていて、女の子に性の知識を与える力、そして真の貞潔に成長させてやる力さえも持っていない事実を描いている。男の子にとっては、愛や温情の微塵《みじん》もない中学校、女の子にとっては愛はあるようだがそれが無智であるために何にも人生的な救いとはなり得ない家庭教育。それらの轍《わだち》の下で青春を散らす悲惨を、ヴェデキントは、強烈な表現で訴えているのである。
 フランスの文学がルナールの「にんじん」(白水社)で私たちに語っているのは、親と子という血の近さではうずめられない大人と子供の世界の、無理解や思いちがいという程度をこした惨酷さではないだろうか。
 ドオデエの「プチ・ショウズ」(岩波文庫・八木さわ子氏訳)は、フランス文学の中でのデエヴィッド・カッパアフィルド(ディッケンズ)と云われている作品であるけれども、この忘れ難い小説の前編の中ごろ以下、サルランド中学校の若い生徒監としてプチ・ショウズが経験する野蛮と冷酷と利己の環境は、とりも直さずプチ・ショウズとともにその中で苦悩する若い魂の背景として、こわいほどまざまざと描き出されている。
 マルタン・デュガールは、長篇「チボー家の人々」(白水社・山内義雄氏訳)を何故第一巻の「灰色のノート」をもってはじめずにはいられなかったのだろう。そこで無視され、卑俗な大人の通念で誤解されたジャックの能動的な精神の発芽が、やがて封じこめられた「少年園」第二巻で経験する苦しみと危機との描写は、現代においても若い精神が教育とか陶冶とかいう名の下に蒙らなければならない戦慄的な桎梏と虚脱とを語っているのである。
「少年時代」(岩波文庫・米川正夫氏訳)の中でトルストイが描いている家庭教師への憎みは貴族の子弟でもその背に笞
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