いう観念上の願望と結び合わされているために、現実から脱出する結果を招いて、彼の生活の孤立ととかく死に方向を見出すロマンティシズムとが生じている。美しく純一であろうとする願望に偽りはないが、作家として見れば正しさをこの世に求める創ろうとする動きの肯定に対する決定的な弱さがそこに在るのである。
「クヌルプ」(岩波文庫・漂泊の魂)には、この作家の弱点というべきものが典型を示していて、人間の生命の浪費が、当然向けられるはずの疑問もなく美化して呈出されているのである。
現代は歴史も、文学の現実に対するみかたもともに進展して来ているのだから、時代や永遠なものに対する個人の浄化の道も、ヘッセのように主観のなかでだけの解決にたよってロマンティックな雲の流れとともに漂うばかりでなく、「青春彷徨」に云われているように、「愛に溢れて最早や悩みも死をも恐れず」、「それを厳粛な兄弟として厳粛に兄弟らしく迎える」ためには、個人のうちに作用している時代と永遠なものをはっきり歴史的な関係としてつかんで、悩みも死もおそれず迎えるだけでなく、非合理な悩みと死とは、それを絶滅するために精力をかたむける人間の人間らしい光栄を肯定するときになっているのだと思われる。
「車輪の下」にはヘッセの数多い作品の中でも、そういう積極的な人間らしい生活を求めずにいられない人々の願いの方向が生々しく脈うっている。この小説のなかで作者が、大人の所謂教育というものの考えかたに対して向けている抗議には、おとなしい表現の中に鋭い、健全な洞察が閃いている。この小説が今日もひろく若い人々の心をひきつけるものを失わないとすれば、それは、ロマンティックな雰囲気にかこまれつつも極めてリアルな同感をよびおこさずにいない、この作者の人間抗議の誠実な響であろうと思う。
それにつけて思い合わされるのは欧州文学の宝庫の中には、何と教育というものへの批判と抗議の文学が数多く在るだろうというおどろきである。
たとえば、ドイツの近代文学を眺めれば、理解されない子供の悲劇を主題とした作品は二十世紀の初めごろからいくつか現れている。フレンセンという作家の「イエルン・ウール」という作品は、文学の歴史で云えばヘッセの「車輪の下」の先駆をなす性質の作品である。さらにヴェデキントの「春の目醒め」(岩波文庫・野上豊一郎氏訳)は、日本でも上演されて親しまれている。
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