所謂《いわゆる》現実的な人々の生活に対する真の愛の欠乏である。そういう大人たちは、この人生に自分たちの欲望しか認めず、自分たちの希望の成就しか目ざさずそのために未来は人間のよろこびとなる存在であったかもしれない稚く美しく哀れな生命の幾つかが圧しつぶされ、壊滅してゆくことについては全く鈍感に生活している。「青春彷徨」で云っているように愛するという甘美で困難な仕事は、その困難がいかに深刻であるかということを、ヘッセは「車輪の下」においても語ろうとしているのだと思う。
 ヘッセは、この小説のなかに、彼の特徴である自然への憧れ、そのうちへ溶け入ってより寛くゆたかに生々とさせられる情緒を実に濃やかに描き出している。ハンスが、おそろしい入学試験を終った日、小さい庭へ出て、過度な勉強から来る頭痛や悲しさを知らなかった幼い日の思い出の兎小舎をうちこわし、水車をこわす心持は、読者の胸をもハンスの憂愁と愛着とで疼かせずにはいない。釣をする柳の生えた河の景色の溌剌とした描写。精神にとっては牢獄である修道院の周囲にさえも、自然は美しさと多様さとをくりひろげていることの悲しい感動。それらはあらゆる読者に、自分たちの幼年の日の思い出を甦らせ、憂いとよろこびの流れ合った独特な心持を目ざめさせて、ハンスの苦悩にみちた運命に共感をおこさせる。同時に、この作者が自然というものに対して抱いているロマンティックな傾倒もそこに溢れていて、ハンスのおそろしい生々しい壊滅への姿は、一種霧のようなものにつつまれて、印象にのこされるのである。
 ヘッセは、「青春彷徨」で発展小説を、「車輪の下」で教育小説をかいたと云われているけれど、この作者の天質にはロマンティックな詩人としての要素が決定的なものとして働いていると思う。「青春彷徨」の結末にしろ「車輪の下」の最後にしろ、ヘッセは、誠意をこめて辿って来た精神と肉体の葛藤の終りを、いつでも音楽で云えば弱めて消されるピアニシモの音調で結んでいる。余韻は空気のなかにのこってふるえているけれども、その余韻の快さに甘えてばかりいないで、そこにふくまれている作者の暗示にとんだ意味をとりいれて生活の力とする読者は、果して何人いるだろうか。
 決して譲歩しない人生に対する沈着な勇気と不屈な正義への感覚とが、ヘッセの場合では外的な関係なしに、個人的な関係を時代と歴史とに向って浄化しようと
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