若き世代への恋愛論
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)簇出《そうしゅつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そのしきたり[#「しきたり」に傍点]に反撥する
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昨年の後半期から、非常に恋愛論がとりあげられ、いろいろの雑誌・新聞の紙面がにぎわった。一方に社会の有様を考えて見ると、二・二六事件の後、尨大な増税案がきめられて、実際に市民生活は秋ごろからその影響をうけはじめている。煙草・砂糖・織物すべてが高価になり、若いサラリーマンの日常は些細なところまで逼迫してきている。軍需インフレーションは一部をうるおしているであろうが、その恩沢にあずからぬ者の方が多いことは明らかである。この数年来、若い男女の経済生活は、中流層の崩壊につれて困難の度を加えてきている。結婚難も増し、従って、若い人々の間の恋愛の感情も複雑な影響をうけている。その困難を打ちひらいて、若い時代にふさわしい希望と生活にうち向う気力を鼓舞しようとする意気組から、これらのおびただしい恋愛論は簇出《そうしゅつ》したのであったろうか。
前後して、日本のインテリゲンツィアの間には青年論がとりあげられていた。青年が、現代の日本における社会情勢の中では、数年前マルクス主義が自由に検討された時代のような若い時代の歴史性の自覚、確信、それを可能ならしめる客観的事情もかけているし、さりとて、若い精神と肉体とをある一部の特殊世界の人々の人生観でしばりつけられ、一面茶色の叢のような存在におかれ切ることにも満足できず、その中間の苦痛深い現代青年の問題をとりあげたのであった。
青年論に連関するものとしてのはっきりした見とおしで恋愛論がおこったともいえない状態であった。むしろ、偶然に社会の耳目をひいた恋愛事件、恋愛による殺傷事件などの刺戟が、昨年から今年にかけてこの恋愛論を生んでいるのではないだろうか。
そして、現在私たちの周囲にある恋愛論の多くは恋愛論の論というとおかしいが、そういう恋愛論は正しいとか間違っているとか、そういう論の論議にかたよっているように思える。さらに特徴的なのは、恋愛について物をいい、書きしている論客の大部分がほとんど中年の人々であることおよび、それらの恋愛論と読者との関係では、それぞれの論が読まれはしていても現実に若い人々の生活における行動の規準となるものをもっていないことなどが感じられる。
現代の若い男女のおかれている時代的な境遇というものを洞察して、その脈管にふれて多難な人生行路の上に力づけ、豊富にされた経験と分析とで、若い時代の生活建設に助力しようとする熱意からの恋愛論は、残念ながら少なすぎる。ある主観的な点の強調からの恋愛論やその反駁、さもなければ、筆者自身が大いに自身の趣好にしたがって恋愛的雰囲気のうちに心愉しく漫歩して、あの小路、この細道をもと、煙草をくゆらすように連綿とみずから味っている恋愛論である。
私は一人の読者として、心に消すことのできない一つの疑問を抱いている。今日、本当に自分たちの生活を現実に即して考え、さまざまの困難に向いあっていて、しかも勇気を振ってそれを突破してゆかなければ結局生きようはない境遇におかれている若い男女が、はたして、これらの恋愛についての議論や講義の中に、自分たちの生涯の問題がとりあげられ語られているという切実なものを感じ得るであろうか。恋愛論という見出しを見て私の心にすぐくるのは深いこの疑問である。
恋愛とか結婚とかの問題は、きわめて人生的な性質のものである。それぞれの個人の性格、境遇が綜合的にほんの小さく見える偶然にまで作用して来るのだが、やはり時代というものが押し出している強い一つの共通性というものがある。
同じ恋愛についての新しい認識、方向が求められるにしろ、時代は過去においてそれぞれの性格を示した。明治初年の開化期の男女は、政治において男女同等の自由民権を主張したとおり、急進的に男女の自由な相互の選択を主張した。自由結婚という言葉が、この時代の人々の行動を通して今日までつたわって来ている。
日本におけるこの時代は非常に短く、それは近代資本主義日本の特性を語るのであるが、憲法発布頃から、恋愛や結婚についての一般の考えかたが、ある点逆もどりした。婦人の進歩性というのは、当時の社会の指導力が進んでゆこうとしていた方向を理解し、それをたすけ、ついて来るだけの能力を女も持たなければ不便であるというところに限界をおかれた。恋愛や結婚についても、それに準じて、親の利害に反対しない範囲で、ひとに選んで貰った対手と、婚約時代には交際もするという程度のところが穏当とされたのであった。
藤村や晶子が盛にロマンティックな詩で愛の美しさ、愛し合う男女の結合の美しさ、価値をうたった時代、現実の社会生活の中では決してそのような誰にものぞましい結合がざらにあった訳ではなかった。進歩的な若い文学者など(例えば透谷・藤村・独歩・啄木その他)が、新しい生活への翹望とその実現の一端として、自分たちの恋愛を主張し、封建的な男女の色恋の観念を破って、人間的な立場と文化の新生面の展開の立場で、男女の人格的結合からの恋愛と結婚とをいったのであった。
ヨーロッパで、自然主義の持った役割は非常に大きく、過去のヨーロッパ文化がその宗教的な伝統、騎士道の遺風、植民地政策の結果から生じた女性尊重と精神的愛の誇張から生まれている男女の性生活の偽善を打ち破る力があった。文芸思潮として日本へ入って来たこの自然主義は、当時の日本の社会事情、伝統的習俗の上へ蒔かれて、男女の結合とその生活の内容を観ることでは、ロマンティシズムの詩人たちが、心と姿とを審美的に輝やかしく描いたに反して、肉体的な面、いわゆる獣的な結びつきだけを拡大した。人間の恋愛をとりあげるのに、精神と肉体とをそういう素朴さで二元的なものに観、肉体の欲求を獣的と見たことも今日の私たちの心持から推せば何か奇怪であり、滑稽でもある。愛を表現しようとする心の望みが高まったとき、私たちはどうしてその熱情に応じて花咲き、匂う自身の肉体を否定したり、そこに獣を見たりしよう。人間の感能がこのように微妙に組織されており、機能がしかく精密であるということには、それにふさわしく複雑で、多彩で、弾力にとんだ精神の活動の可能が示されているのである。恋愛のように人間の総和的な力の発動を刺戟する場合、今日の私たちは自分たちの全人間が、その精神と肉体とが互に互のけじめもつけかねる渾然一体で活躍し、互が互の語りてとなって、愛する者に結合することを知っているのである。
ところで、日本の自然主義者たちは、そのように現実曝露として性的結合の獣的と見られた面をだけ抉出して芸術化したのであったが、このことの中にも、日本の社会において男が女を下に見る封建的なものは微妙に反映した。男女関係で、獣の牡牝にひとしい挙止を見た日本の自然主義の作家たちは、我知らずこれまでの日本の男らしい立場で、そのような牡である自身を人間的な悲愴さで眺め解剖しつつ、そういう牡である男に対手となる女が、はたして男が牡であると同量にあるいはその自発的な欲望において牝であるかどうかという点についての観察は深めなかった。当時の考えかたに従って男を牡と見きわめて、自身の牝を自覚し、強請する女は、日本の自然主義文学の中には描かれていない。男に岩野泡鳴はいたが、女にはそういう作家も出ず、自然主義の後期にそれが文学の上では日常茶飯の、やや瑣末主義的描写に陥った頃、リアリスティックな筆致で日常を描く一二の婦人作家(故水野仙子氏など)を出したにすぎない。このことにも、日本の社会の特徴が、男と女とにどう作用しているかということの面白い、具体的な現われが見られるのである。
漱石がこの明治四十年から大正初期にかけて、婦人の自我というものと男性の自我とが現実生活の中で行う猛烈な噛み合いを芸術の中に描いたのは注目に価する。牡に対する牝としてではなく、人間女として婦人がこの社会生活に関っている心理的な面を漱石はとらえ、このことでは、両性の関係のみかたが一歩進んだのであったが、漱石は、日本の結婚生活というものが一般に女の自然的性格の発展を害するものとして見ている。彼の思想は、当時の知識人の立場を代表して自我の発見に集注していたので、日本の女がたいてい結婚してわるくなるということの重点も、男の自我と女の自我との相剋に、原因をおかれた。そして、その相剋を積極的な主張的なものとして出す力も社会的習慣をも持たない女が内攻的になり、嘘をつくようになり、本心を披瀝しないものとなって、ただ男を社会経済生活に必要なものとだけ見てゆくようになる、その卑俗性がまた男に反射して摩擦を激しくする、その苦しい過程を描いたのであった。漱石が結婚しないうちの若い婦人に対して抱いていたどちらかというとロマンティックな、趣味的な気分と、結婚している女の良人に対する心理に辛辣な観察を向けている。その対照は細かくそれを眺めて行くと、明治初年に青年期を送ったこの大作家の心持に秘められているさまざまの時代的なものが実に面白く眺められるのである。漱石は、日本の社会にある結婚生活が、女を損い、そのことによって男の幸福もそこなわれていること、結婚生活の外面的な平和や円滑さに対する懐疑をつよくいいながら、それならば、と新しい生活の方向、結婚や恋愛の道をその作品の中で示し得なかったこともまた大いに注目すべき点であると思う。若い娘に対して、この作家はやっぱり従来の日本の家庭の雰囲気が生んだ内気なもの、淑やかなもの、人生に対して受動的な純潔、無邪気に満ちている美を美として認めている。漱石が、自分の恋愛に対して自主的であり、捨身である女を描くことができたのは、きわめて幻想的なヨーロッパの伝説を主とした「幻の盾」や「薤露行」やの中の女性だけであったことも興味ふかい。漱石は、彼が生きた時代と自身の閲歴によって、日本の知識人の日常生活の桎梏となっている封建的なものに、最も切り込んだ懐疑を示した作家であった。けれども、一面では、自分の闘おうとしているものに妥協せざるを得ない歴史の遺産が彼の心の中にあって生きていた。
当時、まだ若かった平塚らいてう氏と森田草平氏とが、ダヌンツィオの影響で、恋愛は死を超えるものか、死が恋愛を負かすものであるか、という、今日から見ると稚げとも思える一つの観念的な試みのために伊香保の雪の山中に行ったりした事件に対し、漱石は、どちらかというと、先輩、指導者としての責任感という面からの感情で見ていることも、興味がある。
平塚らいてう氏たちによってされた青鞜社の運動は、沢山の幼稚さやディレッタンティズムをもっていたにしろ、この社会へ女というものの存在を主張しようとする欲望の爆発として、歴史的なものであった。原始の女性は太陽であった。婦人の自由は社会生活の全面に確保されなければならないという主張であったけれども、当時の社会、経済生活は婦人にその主張の土台となる経済力を与えていなかった。いわば親がかりで気焔をあげているところがあった。母権時代は、現実の上には遠く遙かに過ぎ去っているのであったから、そういう主張をした婦人たち自身の恋愛や結婚にしろ、わずかに当事者たちの選択の自由、自主性、を示し得たに止った。そしてその女性たちの選択の自主性が、はたしてどれだけ人間的に社会的に高められ、進んだものであったかということについては、若い世代は、彼女たちの時代的経験に敬意を払うとともに、大なる疑問をのこしているのである。
白樺派を主とする人道主義の人々は、出生した環境、階級の関係から、旧来の男尊女卑に反撥して、男と女との結合につよく人間性を求めた。殿様の切りすて御免風な女に対する関係を否定したのであった。恋愛において、結婚生活において、形式から縛られた貞潔ではなしに、自発的な自身の愛情に対する責任としての貞潔を、自身にも婦人にも求めた。人間として完成する伴侶としての男と
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