い男女の一群とがある。
批判的で建設的にこの二度とない人生を生きようとしている男女が、その心持を恋愛論にひかされるのは、今日の恋愛と結婚のありように対する真摯な疑問と、その解決の要求からであると思う。
一口に男といっても、今四十前後の男と青年とは気質にも慣習にも非常に多くの相異をもっている。青年のうちにまたなかなか複雑な型《タイプ》の類別が生じている。男の貞操とか女の貞操とか対比的によく問題となってきている。これまで、男といえば菊池氏流に、貞操というようなものはないもの、多妻的本性によって行動するものと単純に自覚されてきているが、現代の青年ははたしてすべてが、そういう単純な生物的な一機能に全人間性を帰納させた生きかたを自分の生きかたとしているであろうか。私は、現代の青年のある部分は、性的なものを多様な人間の生活要素の一つとして、綜合的に自覚しているもののあることを現実に知っている。抽象的に未来の妻となる女に対する貞操とか、何か宗教的なあるいは生理的な潔癖性からでなしに、人間としての自分が肉体で結びつくまでには、やはり人間的に愛し得る婦人を必要とするたちの青年が決してなくはない。
ある唯物論者といわれている人が、某大学の学生の座談会によばれ、その学者は、青年たちに、性的な欲求は現代の社会で、その自然な解決が閉されているのだから売笑婦によってドシドシ処理して行ったらよい、病気にさえならなければよい、という意味のことを語ったそうである。ある人たちはその見解に納得したであろう。ところが、ある納得せぬ人々の一団があった。そしてその納得できなかった青年たちはある人のところへ来て訴えた。自分たちは道学者流に考えているのでもないし、性的経験に対して臆病であるとも思わないが、性的衝動を感じて、その解決をねがっても売笑婦のところへはどうしても行けない。いいとかわるいとかではなく、行く気になれない。あるいは不便で不幸かもしれないが行けない、といっているのである。
一方に、同じ年頃の青年でも、そういう面での欲求は至って何でもなく売笑婦のところで放散させ、若い女とはそういう要求からでもなく、結婚しようというわけでもなく遊ぶという青年の型が生じている。そういう型を知識人のある人は何の疑問もなく、現代の賢い青年と呼んでいるのである。
同じような型で、賢い若い女といわれる人々がある。恋愛は恋愛、結婚は結婚。そして、結婚には、対手の経済的な力を第一の条件とする娘。そういう若い女は、現代社会の富の分布の関係から、当然、自分よりずっと年長の男を良人とし、やがて良人は良人として、妻は妻としてそれぞれの形の裏切りを重ねてゆくわけである。
地道な若い下級サラリーマンや、職業婦人の間に、今日はこんな世の中だからよい恋愛や結婚は望んでも駄目だという一種の絶望に似た気分があるのも事実だと思う。青年たちは、自分たちの薄給を身にこたえて知り、かつ自分の上役たちにさらわれてゆく若い女の姿を見せつけられすぎている。職業婦人たちは、それぞれの形で、いわゆる男の裏面をも知らざるを得ない立場におかれている。私たちの新しい常識は、職場での結合をのぞましいものと告げているのだが、日本の社会の現実で、愛情の対象を同じ職場で見出すことはほとんど絶対に不可能に近い。大経営の銀行、百貨店、会社はどこでも、そこに働いている男女の間の恋愛や結婚を禁じている。もし、そういう場合には、どちらかが、多くの場合女が職業をすてなければならない。けれども、今日多くの若い職業婦人が大衆の貧困化から強いられて来ているように、家計の支持者であるとしたら、困難は実に大きい。若いサラリーマンの給料は妻を扶養するのもむずかしく思われるほどだのに、ましてその家族の負担などは考えることもできまい。男にも経済的に助けなければならない家族がある場合がむしろ多いであろう。下級勤人ほど、この家庭の経済的羈絆はその肩に重からざるを得ないのである。
それに、一つの職場中でも、伝統的な男尊女卑はのこって作用している。職業婦人の感情には、集団としてそのしきたり[#「しきたり」に傍点]に反撥する感情の潜んでいることは自然であり、男の同僚たちも、男尊の一般的傾向にしばられ女に親切な男として仲間からある笑いをもって見られることを厭う。馘首の心配に到る前に、これらの重複した原因から、男と女とは、一つテーブルのあちらとこちらとでも、まともに対手を眺めようとしなく成っている。人間の心理は微妙であるから、自然な状態におかれればおのずから親密さや選択の生じる若い男女が、はじめからある禁圧を意識して日々対していることから、牽引が変形して一種不自然な反撥となって感情の中には映って来ることさえあるのである。
さいわい、互に働いている男女が愛し合うとして共稼ぎということが問題となって来る。医学博士の安田徳太郎氏は六七十円の共稼ぎで、女が呼吸器を傷う率が高いことをいっていられた。今日の社会では女が働いてかえってきて、やっぱり一人前に炊事、洗濯をやらなければならない。経済的にもそうしなければやってゆけない。それでも困るし、と共稼ぎの生活を女が躊躇すると同時に、せめて家庭をもったら女房は女房らしくしておかなければ、と共稼ぎをきらうために結婚しない男もある。
だが、このように錯雑した恋愛や結婚の困難性に対して、はたして打開の路はないのであろうか。
私は、今日一般にいわれている困難性そのものがもう一歩つき入って観察され、批判的にとりあげられなければならないと思う。なぜなら、今日の若い勤労生活をしている人々の間でさえ、まだ恋愛や結婚はどこか現実から浮きはなれたところをもって感情の中に受けとられていると思う。世の中のせち辛さはしみじみわかっている反面で、恋愛や結婚についてはブルジョア的な幻想、そういう色彩で塗られて伝えられている安逸さ、華やかさを常にともなって考えられていないと、いい切られるであろうか。男の人々も自分の愛する女、妻、家庭と考えると、そういう名詞につれて従来考えられ描かれて来ている道具立てを一通り揃えて考え、職業をもっている婦人だって妻は妻と、その場合自分の妻としてのある一人の女を見ず、妻という世俗の概念で輪廓づけられているある境遇の女の姿態を描く傾が、決して弱くはないと思う。
女のひとの側から、男を見る場合そういうことがないといえない。あのひともいいけれど、結婚する対手となるとまたちがう、という標準は何から生じるのであろう。そこまで深く調和が感じられないという意味のときもあろう。だが、良人としてはもっと何か、というとき、やっぱり妻を養う経済力とか地位の将来における発展の見とおしとか、そういう条件がつけ足されて選択の心が働くことが多いと思う。
若い女が素朴に恋に身を投げ入れず、そういう点を観察することが小市民の世わたりの上で賢いとされた時代もあった。いわゆる人物本位ということと将来の立身出世が同じ内容で、選択の標準となり得た時代も遠い過去にはあった。けれども今日の大多数の青年の苦しみは、明治時代の人物本位という目やすが自身の社会生活の生涯に当てはまらなくなっていることから湧いている。精励な会社員はあくまで社員で、人物がどうであろうと、重役には重役の息子がなるのが今日の経済機構である。
私は誠意をもって生きようとするすべての若い男女たちに心から一つのことを伝えたい。それは、好きになれる相手にであえたならば、いろいろのつけたりなしで、そのひと[#「そのひと」に傍点]を好きとおし、結婚するなら二人が実際にやってゆける形での結婚をし、勇敢に家庭というものの実質を、生きるに価するように多様なものに変えてゆくだけの勇気と努力とを惜しむなということである。そういう意味で、今日の若い男女のひとびとは、自分たちの人間性の主張をもっと強く、現実的に、自分たちのおかれている境遇の内部から発揮させなければならない。そうして行かなければ一つの恋もものにならないような世の中である。
私は君を愛している、というだけでは今日の社会で恋愛や結婚の幸福はなりたたず、金も時間もいるというブルジョア風な恋愛の見解に対して、ある青年はこういう抗議をしている。現代には新しい男が発生している。その男たちは生活の資本として労働力をもつばかりであると同時に、愛する相手の女に与えるものとしては、私は君を愛する、という言葉しか持たない場合、この言葉が何事をも意味しないといえるであろうか、と。
若き世代は、生活の達人でなければならない。世わたり上手が洞察のできない歴史性の上で、生活の練達者とならなければならない。恋愛や結婚が人間の人格完成のためにある、といえばそれは一面の誇大であるが、真の愛の情熱は驚くばかりに具体的なものである。必要を鋭くかぎわける。理論的には進歩的に見える男が家庭では封建的な良人であるというようなことも、良人と妻という住み古した伝来の形態の上に腰をおとして怠惰であるからこそのことで、もし愛がいきいきと目をくばって現実の自分の相手を見ているのであったら、たとえば、若い人々の家庭の持ちようというものにも、単にアメリカ化したエティケットの追随で男も皿を運ぶのがよき躾という以上の共同がもたらされると思う。共同に経験される歓び、そして現代では共同に忍耐され、さらにそれを積極的なものに転化してゆくつよい共同の意志と努力とが必要である。
私たちが生きているこの現実の中で、愛し合う可能の下におかれ、めぐりあった相手しか、現実に私たちの愛せるものは存在し得ないのである。その相手と共にこの人生に築きあげてゆく愛の形、最もよく発揮される社会的な発展進歩への価値こそ現実のものである。ふわりふわりと地上から二三尺のところを漂い流れているものがあって、それを何かのはずみで指先にかけつかまえたものが、いうところの幸福な恋愛と結婚との獲得者になるのではない。
近頃唱えられているヒューマニズムの論は、性生活においても、その自由な発露と豊饒さを主張しているのであるが、現実の事情をはなれて、自由や豊饒さを語っても、結局はロマンティシズムに堕ちる。十九世紀の近代社会の勃興期におけるロマンティシズムのような、現実へ働きかける情熱としてではなく、今日の分裂的な恋愛、とくに日本においては、逞しい生活意欲という仮装面の下に、危うく過去のあり来りの男の凡俗な漁色の姿をおおいかくしている結果になる。
ヒューマニズムとは、勇気と沈着さとで我々がおかれている現実の環境とその推移の本質を見とおし、恋愛においても、偸安に便利な条件を左顧右眄《さこうべん》して探すのではなく、愛しうるひと[#「ひと」に傍点]を愛し抜こうとしてゆく人間の意志とその実践と、その過程に生まれてゆく新しい社会的価値の発見であると思う。現代の苦しい社会的矛盾の間に生きて、ゆがむまいと欲する人間の努力を全面的に支持し、発展させる熱意こそ、今日のヒューマニズムの精髄であらねばならないと思うのである。[#地付き]〔一九三七年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「昼夜随筆」白揚社
1937(昭和12)年3月1日
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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