、中農の娘が巡査、小学校の教員、村役場の役員その他現金で月給をとる人のところへ嫁にゆきたがるのは、農村に現金が欠乏しているからと、語っておられる。それも確に一つの原因ではあろうが、今日、婦人雑誌の一つもよむ若い農村の娘は、耕作の激しい労働に対する嫌悪と文化の欠乏を痛感している。私の知っているある娘はこういった。「私は東京で嫁に行きたいと思っていたんですけれど。――田舎は煙ったくて、煙ったくて。」その娘の煙ったいというのは本当に煙のことで、田舎では毎朝毎夕炉で粗朶《そだ》をいぶし、煮たきをする、その煙が辛い。ガスのある東京で世帯をもちたいというのである。
巡査にしろ、小学校教員にしろ、その妻は畑仕事が主な仕事ではなくて生計が営める。婦人雑誌をよむひまも、そこに出ている毛糸編物をやるひまもあり、最低ながら文化的なものを日常の生活の中にとり入れることができるであろうという若い女の希望も、この事実の裏にあると思う。
ブルジョア文化というものは、何と奇体に不具であるだろう。たとえば近頃の婦人雑誌を開いて見れば、女がいつまでも若く美しくている方法から、すっきりとした着付法、恋愛百態、輝やかしい
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