で、人物がどうであろうと、重役には重役の息子がなるのが今日の経済機構である。
私は誠意をもって生きようとするすべての若い男女たちに心から一つのことを伝えたい。それは、好きになれる相手にであえたならば、いろいろのつけたりなしで、そのひと[#「そのひと」に傍点]を好きとおし、結婚するなら二人が実際にやってゆける形での結婚をし、勇敢に家庭というものの実質を、生きるに価するように多様なものに変えてゆくだけの勇気と努力とを惜しむなということである。そういう意味で、今日の若い男女のひとびとは、自分たちの人間性の主張をもっと強く、現実的に、自分たちのおかれている境遇の内部から発揮させなければならない。そうして行かなければ一つの恋もものにならないような世の中である。
私は君を愛している、というだけでは今日の社会で恋愛や結婚の幸福はなりたたず、金も時間もいるというブルジョア風な恋愛の見解に対して、ある青年はこういう抗議をしている。現代には新しい男が発生している。その男たちは生活の資本として労働力をもつばかりであると同時に、愛する相手の女に与えるものとしては、私は君を愛する、という言葉しか持たない場合、この言葉が何事をも意味しないといえるであろうか、と。
若き世代は、生活の達人でなければならない。世わたり上手が洞察のできない歴史性の上で、生活の練達者とならなければならない。恋愛や結婚が人間の人格完成のためにある、といえばそれは一面の誇大であるが、真の愛の情熱は驚くばかりに具体的なものである。必要を鋭くかぎわける。理論的には進歩的に見える男が家庭では封建的な良人であるというようなことも、良人と妻という住み古した伝来の形態の上に腰をおとして怠惰であるからこそのことで、もし愛がいきいきと目をくばって現実の自分の相手を見ているのであったら、たとえば、若い人々の家庭の持ちようというものにも、単にアメリカ化したエティケットの追随で男も皿を運ぶのがよき躾という以上の共同がもたらされると思う。共同に経験される歓び、そして現代では共同に忍耐され、さらにそれを積極的なものに転化してゆくつよい共同の意志と努力とが必要である。
私たちが生きているこの現実の中で、愛し合う可能の下におかれ、めぐりあった相手しか、現実に私たちの愛せるものは存在し得ないのである。その相手と共にこの人生に築きあげてゆく愛の形、
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