稼ぎということが問題となって来る。医学博士の安田徳太郎氏は六七十円の共稼ぎで、女が呼吸器を傷う率が高いことをいっていられた。今日の社会では女が働いてかえってきて、やっぱり一人前に炊事、洗濯をやらなければならない。経済的にもそうしなければやってゆけない。それでも困るし、と共稼ぎの生活を女が躊躇すると同時に、せめて家庭をもったら女房は女房らしくしておかなければ、と共稼ぎをきらうために結婚しない男もある。
だが、このように錯雑した恋愛や結婚の困難性に対して、はたして打開の路はないのであろうか。
私は、今日一般にいわれている困難性そのものがもう一歩つき入って観察され、批判的にとりあげられなければならないと思う。なぜなら、今日の若い勤労生活をしている人々の間でさえ、まだ恋愛や結婚はどこか現実から浮きはなれたところをもって感情の中に受けとられていると思う。世の中のせち辛さはしみじみわかっている反面で、恋愛や結婚についてはブルジョア的な幻想、そういう色彩で塗られて伝えられている安逸さ、華やかさを常にともなって考えられていないと、いい切られるであろうか。男の人々も自分の愛する女、妻、家庭と考えると、そういう名詞につれて従来考えられ描かれて来ている道具立てを一通り揃えて考え、職業をもっている婦人だって妻は妻と、その場合自分の妻としてのある一人の女を見ず、妻という世俗の概念で輪廓づけられているある境遇の女の姿態を描く傾が、決して弱くはないと思う。
女のひとの側から、男を見る場合そういうことがないといえない。あのひともいいけれど、結婚する対手となるとまたちがう、という標準は何から生じるのであろう。そこまで深く調和が感じられないという意味のときもあろう。だが、良人としてはもっと何か、というとき、やっぱり妻を養う経済力とか地位の将来における発展の見とおしとか、そういう条件がつけ足されて選択の心が働くことが多いと思う。
若い女が素朴に恋に身を投げ入れず、そういう点を観察することが小市民の世わたりの上で賢いとされた時代もあった。いわゆる人物本位ということと将来の立身出世が同じ内容で、選択の標準となり得た時代も遠い過去にはあった。けれども今日の大多数の青年の苦しみは、明治時代の人物本位という目やすが自身の社会生活の生涯に当てはまらなくなっていることから湧いている。精励な会社員はあくまで社員
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