原因で、今日、いかに生きるべきかという問題を、新しく提起していることも事実である。しかし、果して、そういう消極的な気分だけが、この究求の慾望を刺戟しているのであろうか。私は決してそうではないことを、若き時代の名誉のために確信をもって云いきれると思う。今日の社会の現実は、白面な常識を持った人間に、或る種の公憤を感じさせずにはいない様々の事実に満ちている。文化の上に現れている愚劣な地方主義にしろ、科学性の蹂躙にしろ、インテリゲンツィアの最も本質である知性の正当な発動に対する相剋が歴然としている。いかに生きるべきかが考え直されている根底には、生きることがないがどうしよう、というばかりではなく、人間的な理性と感情とから否定されるべき事物は分っている。だが、それをどういう実際のやりかたで表現して行くべきか、どこにその道があるか。知識人として肯定し建設すべきもののきっかけを矛盾だらけの社会関係にある自分の日常生活でどう掴み、どうものにしてゆくべきか、という熱心な苦しい摸索があるのである。
 きのうの新聞に、二十五歳で大学の助教授となった青年の記事が出ていた。私はその写真を眺めながら、このひとは今日
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