若い娘の倫理
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)確《しっか》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はしご[#「はしご」に傍点]をするということが、
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 このごろの若い娘さんたちはどんな心持で、何を求めて暮しているだろう。そう自分の心にきいてみると、この答えはなかなか簡単なようで簡単でない。この頃の娘さんたちというひっくるめての表現は、いきなり極めて動的な感じでうって来て、娘さんたち自身にしろ内と外とから二六時ちゅう動いていて、しかもそこに何かの帰趨を見出して行こうとしている自分たちの心持、生きかたを、手際よくまとめて答えることは相当むずかしいのではなかろうか。今の娘たちの青春は、青春時代そのものが一つところに立ちどまっていられない愉しく苦しいものであるという以外に、歴史の大きい転換の時期の影響が様々な方角から射して来ていて、彼女たちの気持を複雑にしている。これは今日世界のあらゆる国々の娘たちが遭遇しているめぐり合わせであると思う。そして、そういう複雑な歴史的な時代の影響というようなものも、特に若い娘さんたちにとっては感性的な生活の気分として感じられ、その中に生きられているのが強い特徴である。
 日本の今日の娘の生活という見出しで、たとえばルポルタージュ写真を撮るとなれば、これも手の込んだ仕事になるだろう。あるひと月をきめて、その月に現れる婦人雑誌の口絵写真を眺め合わせただけでも、ひとくにち娘さんと云われる年ごろの若い女性の現実が、どんなに多種多様になって来ているか。一方の端と他の端とではその日その日が何とも云えない大きいちがいをもって殆ど別天地のような姿を見せている。一つの雑誌の写真には、美しい流行の服装をした令嬢が一匹数百円よりもっとしそうな堂々たる犬を左右において、広やかな庭前で写真にとられている。
 他の雑誌では、機械工として働いている若い娘さんたちの姿、男がわりに田の植付けをしている娘さんたちの姿がうつし出されていて、両極端の現実に生きている娘さんたちは、互に心の底で何てちがう生活だろうと感じながら、しかし格別責任もない消費的なような目でそれぞれの生活を眺めあっているのだと思う。
 それでいながら、やっぱり何か求めて生きているということでは共通で、時代の色もそこに濃くあつめられているのである。
 お嬢さんという境遇にいる若いひとが、この頃は自分たちにつけられるそういう呼び名を嫌って来ていることも面白い。何かそこに安住していられないものがあって、もっと虚飾のない、むき出しの、だが愛らしくぴちぴちした娘という響を自分たちの若さの表徴とする好みになっている。お嬢さん、と云われることのなかにおのずから重苦しく感じさせられる境遇の格式ばった窮屈さや、どこかでその力に従わせられている自分への反撥として、より簡素な娘という云いかたへの趣向があるのだと思われる。実際の条件がそれでどう変化しているかは兎も角として、私は娘なのよと云うとき、そこには若い女性としての自分の生活の領域が主張されている。
 職業をもつことを、大抵のひとが自分たちの若い時代の生活に結びつけて不思議としていない今日の心持も、やはりこのお嬢さんぎらいの感情と共通の根をもつものだと考えられる。それぞれの程度で学生生活が終ったら、そのつづきで職業が持たれて行っている。就職のくちが割合どっさりあるということは今日の社会の条件からおこった需要で、各方面へ婦人の進出をもたらしているのだけれども、それらの職業についてゆく娘さんたちの内面的な動機にふれてみれば、婦人の技能の拡大のためという建て前からより、職業でも持てば、とそこに予想される自分の娘としての生活の何かの動き、何かの自立性への希望からだと思える。幸福を求めている気持を親にばかり託しきれず、一人の娘として世間との接触のなかにそのきっかけをも捉えたい心持が潜んでいるのではないだろうか。
 よく婦人雑誌に出るこの種の働く娘さんの、経済のやりくりを見ると、職業との結びつきの本質がまざまざと語られていると思う。こういう人たちは、自分たちの小遣帳に大きい買物、小さい買物という部をわけている。小さい買物だのお茶をのんだり映画を見たりすることは、自分たちの月給でまかなっている。大きい買物というのには服、靴、ハンド・バッグ、帽子その他が入れられるのだが、これらの大きい買物はみんな親に出して貰う。そして、その金額についてはひとしく沈黙が守られている。そういう基本的なところをまかせている生活態度について深く考えるということもないらしく、自分だけでは解決されているのだから、働く婦人として受ける報酬という社会的なこととして、それが足りなければ足りないことが考えられることもされないのである。
 従って、そういう娘さんたちが職業について、真に獲得して来る経験は、果してどういうものだろうか。
 先ず正直に云って、職業そのものからも、その職業の場面で接触して来る人々からも、大抵は一種の幻滅を感じて来ていると思う。ここに、若い娘の複雑な社会での扱われようも関係していると考えられる。若い娘たちは張りきって、力いっぱいの活力を生かされることを願って、頬を輝やかしながら職場の第一日を迎えるだろう。ところが、日が経つにつれて殆ど総ての職業の平凡さ、種々の職場内の伝習の固陋さ、自分にあてがわれる仕事の詰らなさが遣り切れなくなって来る。いろいろの意味で発展的な系統的な部署へつけられる娘は少くて、大概は機械的な、力のあまる、単調な場所におく。女をそういうところで働かす社会の習慣はまだまだ一般につよく遺っているのである。自分の月給で小さい買物だけすれば生活の根本に不安のない、いくらか生活力に溢れた娘さんたちは、社会のしきたりが女の実力を育ててゆく習慣の上にその位おくれている歴史の反映として、自身の内部にもおくれたものは持っているのだから、職業は職業として理解して確《しっか》りそこで腰を据えて新領野をひろげるように独創性や機智を発揮しようという気にはならないのが普通だと見られる。小さい買物の範囲でいくらか羽根をのばした気慰みをしつつ、女の幸福というものへの二度目の疑問を抱きはじめるのが、非常に多くの例ではないだろうか。
 若い娘さんが職業についていながらその職業の上におちつけず、いつもその外へ目をくばって、何となく不安そうにして絶えず何かを求めるようにしている心理は、極めて微妙に現代の社会の矛盾を語っていると思わずにいられない。男は職業に責任をもってそれで生活してゆく実力がある。けれども女は、その能力のないものとして、屡々《しばしば》対比されるけれど、若い娘さんが職業に落着き、そこで発展をとげる気を持つ迄に到らない心理の理由は、女の天賦にその能力が欠けているからであろうか。そうとばかりは思えない。職業をもち、そこで成長してゆきたい欲望と、恋愛し、結婚し、母となってゆきたい欲望とは、本来女の生活力の綜合された二つの面として実現されてゆくべきだのに、周囲から女への要求が、二つを綜合した自然な内容で出されることは実に稀有の例外でしかない。社会の一面の力は男の習慣がそれを好む好まないにかかわらずグングン女をひろいところへ押し出しているし、女の心持もいつしか女が好む好まないにかかわらず、変って来ていて、自分としての生活や成長にも思いをかけるようになっているのに、他の現実は男の古風な面、女のそれに準ずる面で実際条件の対決を迫っているのである。言葉をかえて云えば、今日の若い娘たちは、菊池寛の、娘は白紙がよいというモラルに一斉の抗議を表しながら、一方にそれをよしとする男を余りはっきり目撃することで動揺し、不安になり、結婚に対しても職業に対しても、あぶはちとらずな気持の地獄におち入るのである。
 大きい買物、小さい買物という暮しぶりの娘さんがこの迷路に引きまわされた揚句、つまりは現状維持の気持に裾をとられてゆく過程は、誰の目にも見易いことであると思う。職業をもったということは、彼女たちに、自分のとれる金銭のたかを教え、同じ環境の青年たちの経済力の小ささを教え、逆効果として、大きい買物をまかせられる力の味を一層身にしみて感じさせる。自分の生きかたを外から眺めるだけの目をもたないある種の若い娘が、そういう力を背中にもっていることから自分が享楽出来ている様々の消費を、青春の夢の実現の一つの形と思いこむことは、たやすく想像出来る。そして、娘心のその夢の実現のために今の社会で必要なのは金であり、良人はそれ故金持でなければならず、その判断で自分たちは前時代の女の感傷は失っているというようなことを、何か新しい価値のように思う不幸な敗北を告白するのである。この結論が、最も俗っぽい、青春の誇りを失った本質のものであることを、こう書いてみれば、否定する娘さんは恐らくそう沢山はあるまい。けれども、或る種の人たちのように、はっきり率直にその転落を表明もせず、従ってそれを考え直すという希望のあるモメントさえ自覚されず、しかも、どこか心の奥でそういう結論に立っているのが、或は大きい買物、小さい買物組の、ある共通性だということは無いだろうか。
 私たちは、ここに以上のような大きい判断の誤りを明白にみるのだが、この誤りの中からもその第一歩に在った動機として若い娘が自分の生活を求めさがしている気持には、無視しきれない視線を感じるのである。

 一寸話が変って、この頃の娘たちはよく外でお茶をのんだり、おしる粉屋へ入ったり、そのまたはしご[#「はしご」に傍点]をするということが、ある滑稽さで云われる。人によっては、それを現代の娘の浪費癖という風にも見ている。男の学生たちが喫茶店にゆくのと同じ心理のように云う人もある。だが、それだけだろうか。
 若い娘たちがその仲間と一緒に喋るとき、大人の目と耳でそれがたとえ幼稚でもおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]でも、本人たちはそれぞれ一城の主で縦横にやっている。勤めている娘さんたちは、仲間うちでは大体それぞれの家庭のそれぞれの条件は一応そのひとたちの内に収めて、語るとしても自分をとおして自分のこととして語ってつき合ってゆく。ところが、その家庭へ御免下さいと入って行くと、その中での娘さんたちの在りようというものは、決して勤め先で一人前に働いているその人のままの自立性ではない。断然、うちの娘として、独立した室を持っていないことが多いし、娘の友達としてお母さんたちとの交渉が生じ、その交渉では仲間とはおのずから異った目での批評もうけなければならない。話題、その喋りかたさえ気がおける。
 たとえ娘の室は立派に独立していたとして、余程鈍感な娘さんならともかく、さもなければ、やはり、友達のものではない周囲の支配的な雰囲気に対して、居馴染みかねるものがある。お嬢さんをきらい娘という呼びかたをこのむ心理はここにもお互に作用している。
 そういううるささをさけて、じゃ、いっそどこそこで落合いましょうよ、ということになって、種々雑多な彼女たちが街頭に溢れて来る次第なのだ。
 みじめっぽく小さい同胞《はらから》たちがごたついている小さい貧相なわが家なんかを友達に見せたくない職場の娘さんたちは、いろいろうるさい[#「いろいろうるさい」に傍点]家のそとで友達と会っている他の社会層の娘さんたちと、椅子をぶっつけ合いつつ、おしる粉をのみつつ、暫くの気焔を愉しむことになる。

 自分の現実をそれなりに承認したくない心持、何かそこから自分としての生活をもって行きたい心持というものは、今日夥しい産業部門に働いている何十万という若い娘さんの心理に、やはり執拗に生きつづけている欲望だと思う。今日の現実は、彼女たちにも職業についているそのことが幸福だと直接に感じられる場合は極めてすくないにちがいない。家のためにも働き、いくらかは自分の生活へのゆとりをも持つ。そのゆとりから、若い娘として今あるがままでは承認出来ない自分の現実をかえてゆく何
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