が、ある滑稽さで云われる。人によっては、それを現代の娘の浪費癖という風にも見ている。男の学生たちが喫茶店にゆくのと同じ心理のように云う人もある。だが、それだけだろうか。
若い娘たちがその仲間と一緒に喋るとき、大人の目と耳でそれがたとえ幼稚でもおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]でも、本人たちはそれぞれ一城の主で縦横にやっている。勤めている娘さんたちは、仲間うちでは大体それぞれの家庭のそれぞれの条件は一応そのひとたちの内に収めて、語るとしても自分をとおして自分のこととして語ってつき合ってゆく。ところが、その家庭へ御免下さいと入って行くと、その中での娘さんたちの在りようというものは、決して勤め先で一人前に働いているその人のままの自立性ではない。断然、うちの娘として、独立した室を持っていないことが多いし、娘の友達としてお母さんたちとの交渉が生じ、その交渉では仲間とはおのずから異った目での批評もうけなければならない。話題、その喋りかたさえ気がおける。
たとえ娘の室は立派に独立していたとして、余程鈍感な娘さんならともかく、さもなければ、やはり、友達のものではない周囲の支配的な雰囲気に対して、居馴染みかねるものがある。お嬢さんをきらい娘という呼びかたをこのむ心理はここにもお互に作用している。
そういううるささをさけて、じゃ、いっそどこそこで落合いましょうよ、ということになって、種々雑多な彼女たちが街頭に溢れて来る次第なのだ。
みじめっぽく小さい同胞《はらから》たちがごたついている小さい貧相なわが家なんかを友達に見せたくない職場の娘さんたちは、いろいろうるさい[#「いろいろうるさい」に傍点]家のそとで友達と会っている他の社会層の娘さんたちと、椅子をぶっつけ合いつつ、おしる粉をのみつつ、暫くの気焔を愉しむことになる。
自分の現実をそれなりに承認したくない心持、何かそこから自分としての生活をもって行きたい心持というものは、今日夥しい産業部門に働いている何十万という若い娘さんの心理に、やはり執拗に生きつづけている欲望だと思う。今日の現実は、彼女たちにも職業についているそのことが幸福だと直接に感じられる場合は極めてすくないにちがいない。家のためにも働き、いくらかは自分の生活へのゆとりをも持つ。そのゆとりから、若い娘として今あるがままでは承認出来ない自分の現実をかえてゆく何
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