かをつくってゆきたい。だが、その何かは、どういうものであったらいいのだろうか。どういうものだったら、承認したくない自分の現実に何か変化をもたらす力となるのだろう。
この場合でも、その何かが職業とは別のところで探されていることは、関心をひくところであると思う。或る場合には、面白くもないわが家を仲間の目からかくしておくと同じわけから自分の職業の種類さえ人の目からは蔭において、その上で若い娘として何かを探す。工場の若い男たちがどっさり偽学生の装《なり》をしている。あの現象には深いこの社会での哀れがこもっていると思う。工場から大学に通っている青年労働者のよろこびと誇りは現実に存在していないのだから、彼等の好学心や学生生活への憧れや、女の子が学生服の方がすきだということやら、いろいろからああいう服装が出来て、その姿で文化の上に或る一つの問題を示していると思う。
特に昨今は女学生と工場の娘さんとの区別がなくなったということは、或る意味ではうれしいことだと思う。何よりも、その年配の働く娘が急にふえて、全く装も学校のつづきで働いているからであるけれど、健康の状態も向上しているわけだろうし、職能の範囲の未来性も考えられる。そういう娘さんは、心持も朗らかなのだろうと思うけれど、その朗らかさは、云ってみれば朗らかに職業とは別に何か自分の生活を求めてゆく妨げにはならないのである。
たとえば、昼間工場に働いている娘さんで、夜間女学校に来るひとの数が大変多くなっていることを、府立第六高女の校長が近頃語っていられる記事をよんだ。辛いが健気《けなげ》なそれらの娘たちは、夕飯をたべる間もなくやって来る。眠たい頭、つかれた体を精一杯にひき立てて勉強する。気遣われるのは、彼女たちの生活を衛生的に助けてやりたい点であると語られていた。
それらの健気な娘さんたちが、そういう努力をとおして求めているのは何だろう。彼女たちが自分の現実に安んじていられない心からの動きである事は明かだと思う。その動きの方向が、技術学校ではなくて夜間でも女学校へと向っているところに、何かが語られていると思うのは誤りだろうか。いろいろ書いたものの上などでは女子労働者の重要な意味がこの頃はよく云われているのだけれども、その立場にいる娘さんたち自身は、そのように重要なものとしての自分たちの青春を感じられず、人前では工場の仕事を蔭に
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