ことにある愕《おどろ》きを感じたのであった。大迫さんの娘さんとしての環境は現代の日本の中流以上の部に属するらしい雰囲気であるが、自分の枠のそとへ一寸出て、そこの生活を観る眼というものはたいへん素朴にしか成長させられていない。自分が今日そのような娘心でいる、その娘心を誰がどのように食わせ養いしているか、いろいろ職業らしいものを持ちながら、大迫さんが、自分とはちがった境遇に今日生きつつあるより多数の娘さんの明暮に思いを拡げず、同質の友達や先輩のうちに生活の環をおいて、疑ってもいない姿もむしろ悲しみを与える。
 さき頃セルパンに、今度の大戦になってからフランスのある若い娘の書いた手記が訳出されていた。今名を思い出せないけれども、二十五歳になっているその娘は第一次の大戦のとき姉や先輩たちの経験した女としての感情の擾乱を、自分たちは自分たちの青春の上にふたたびふりかかった歴史の相貌を見きわめて、ふたたびくりかえさず、世紀の波瀾をしのいで生きる決意があることを、落付いた美しい情熱で語っていて、感銘ふかかった。同じ世紀の「娘時代」が大迫さんの著書のような内容で日本では出ているところに、よろこびを見出すべきであろうか。それとも、そこに私たちの生きる社会の性質が反映していることを思うべきものであろうか。

 野沢富美子さんの『煉瓦女工』は七篇の小説を集めた短篇集である。題が示しているようにこの二十歳の作者の世界は貧苦と病と労働の世界である。好評であることが十分にうなずけるつよい迫力をもった、生々しい筆致で長屋生活の「隣近所の十ケ月」その他が描かれている。この作者は、はっきり婦人作家として立ってゆこうとする自分を自覚している。その自覚の上でこの小説集の後記には「自分の本が出るというのは良い事だと思う。それはペンに全力を尽くす者にとっては出発の道が開いたようなものだから」というよろこび「と同時に小さな不安が来た。それは本を出した後で自分がどうなるかということだ。私は私の不安に負けたくない」とも語られているのである。
 この若い作者が、小説なんか何にもよまず直木三十五を読んだきりであるということが紹介推薦の言葉の中に強調されているのは、私の心にのこることである。そして豊田正子の綴方が世に出されたときも、周囲のひとは彼女が文学的なものに全く遠いということを特に強調して述べていたことを自然のつ
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