ことをしたあげくにすることのような通念にも我知らず屈して、唯そのひとの純粋さえ失われなければ、と出されている条件が人間生活の現実にはほとんど全く成り立たないものだということを知っていないほど、著者は人生に稚く、それが娘の心だというのであろうか。
男と女とが互に束縛する重さを愛の量だと思いあやまったりしない共同の生活をいわゆるさばけ[#「さばけ」に傍点]た同士の物わかりのよさというものとはちがった社会的な基礎の上に求めている若い男女が今日いないとは思えない。この点ではこの『娘時代』の著者を必ずしも自分たちの典型的代弁者とはしない一部の若い世代も存在しているのだと思う。道学流の見地からでなく、人間がこの社会に生きてゆく生活力、人間性そのもののもつ合理性によってさばけ[#「さばけ」に傍点]ることで目先にもたらされるゆとりの皮相さと退嬰とを大局から理解している娘も、今日の日本にいる。それもやはり一つの現実の娘時代の姿ではあるまいか。
この著者が「自分の幸福のためにとる手段」として「安楽な生活」として描いている結婚の対手の財力に重きをおく今日の娘心を肯定しているのも面白い。「誰だって貧乏したくないのは人情だろうし、それを切りぬける自信は、とても私たちにはない」財産家には「娘の夢を育ててくれる金力がある。理想を徐々に実現してゆく余裕がある。ゆたかな生活はつまりゆたかな気持をいつまでも失わず」もし物資的に苦労のある生活で愛の破綻がきたとしたら女はいっそ何によってそれをいやす[#「いやす」に傍点]ことができよう。金があれば「愛情に破綻はあれ、まぎらす方法はいくらもある」故に金力ある良人を求める今日のさもしさが肯定されているのである。あそんで、さばけて、金のある青年を良人として「夢を育ててくれる」生活の条件として求める娘がその面においては「私たちは非常に現実的にからくなっているのだから」「何事にたいしても仮借しないむきな純一しか持ち合わせていない」と力をこめていい切って、しかも「娘の夢」といわれているもののロマンティックな扮装については自分の内の矛盾として見きわめようとしていない態度を、今日の青年もやはり彼らの夢を育ててくれる女性としてよろこびをもって見得る心理なのだろうか。
私は率直にいって大迫さんのように悧溌な娘さんが、まるきり自分の環境や欲求を外側から眺める力を欠いている
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