うし、青年たちも公然とあるいはこっそりとこの本を読むだろう。
大迫さんの才気のある筆は、明快にときに皮肉に娘さん心理のいろいろな面を描き出しているのだけれど、私はひそかな疑問を感じた。娘さんたちはこの本をよんで、いろいろな点全くだわと共感しつつ同時に何となく物足りない底の足りないような感じを心のどこかに覚えるのではないだろうか。つまり、そこが現代の娘の感情の性格そのものだといわれてしまえば、それ迄のようなものだ。しかし、それでもそのままやっぱり引こんでしまえないようなものが読者の胸に後味としてのこされるのではないかと思う。
たとえば、若い年ごろの娘さんさえみれば結婚話にひきかけてゆく大人の通俗的なうるささに対して、今日の若い娘さんが厭《うと》ましがる心持は十分にうなずける。縁談の場合、男だけが虫のよい註文をつける腹立ち、仮装とトリックとで娘さんに対する仲人というものへの侮蔑の感情、それらはみな若い美しい潔癖であり、つよく娘さんの側から社会的な態度として主張されてゆかなければならない点であると思う。けれども、「お世辞だらけの縁談はまっぴら」というなかで大迫さんが、結婚の対手が石部金吉では窮屈だ、若いころの恋愛ならいくらあったって少しも縁談にさしつかえない、ただそのひとの純粋さえ失わなければそれでいいと思う、といい切っていることは、今日の娘がどんなに旧来の嫁、妻という境遇の束縛から自由になりたがっているかということと考え合わせ、さまざまの感想をそそられた。
独占的な、封鎖的な古風な男の愛情にとらえられて、おれの女房という狭く息苦しい囲いの中に入れられる生活への嫌悪と恐怖は、今日の娘たちに、いわゆるさばけた人を良人として求めさせている。だが、日本の社会の環境が負っている歴史の性質から、そのように近代の女としての空気を自分の周囲に求める娘たちが、まるでその本質は封建的なあそび[#「あそび」に傍点]でさばけた人というものをむしろ肯定しなければならないというのは、何という奇妙で不幸な矛盾であろう。その矛盾の歴史的なにがにがしさを、若い世代としての情熱ではじきかえさず、そこの間に横たわる矛盾こそがいかに大きく深い力で今日の娘たちを引おろしているものであるかも知らず、何かリアリストのようにいい切っている姿は、何と憫然で腹立たしいだろう。若いころの恋愛なら、とまるで結婚はしたい
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