ながりで思い浮べた。
日本の文学はこの四五年来、社会事情の変転とともに大きい転換時代にめぐり会い、文芸思潮と呼ぶようなものも失っている。生活の現実を現実のまま文学に反映すべきであるという一つの要求は、生活者としての現実が多様、広汎であるという面から、素人の文学を求め、それを評価しようとする傾向をも示した。川端康成氏が、女子供の文章のいつわりなさを文学の一つの美として強調されたのもこの頃であったと思う。豊田正子というひとは、丁度この前後の潮流との関係もあって、広い社会へ押し出されたのであったが、それが従来の所謂文学とはちがったものであることをつよく印象づける条件として、彼女の場合にもその生活環境の条件が特に正面に押し立てられたのであった。
『煉瓦女工』の野沢富美子さんの場合は、豊田正子とちがって、はっきり作家として成長してゆくことが目ざされているのだが、やはりこの人の推薦の言葉にも、直木三十五しか読んでいないことが一つの強味のようにいわれて、環境の条件だけが押されているのは何かを私たちに考えさせないだろうか。
本を読む欲求というものは、青春時代、つまりは人生への何かの欲求、何かの探求から生れるものなのだと思う。ゴーリキイの「幼年時代」「人々の中」「私の大学」などは傑れた文学上の古典であり、人生の塩のような作品だが、これらの作品の中に描き出されている少年青年としてのゴーリキイの環境は実に苛酷なものであった。その苛酷な野蛮な、周囲の日常生活の流転の姿に痛む若い日のゴーリキイの心が、人間社会のよりひろさ、より明るさを求めてどんなに苦心して本を読んで行ったかということは「人々の中」などにまざまざと描かれている。読むこと、読んだことを考えることとその考えでいくらかずつ豊かにされた心で周囲を見直してゆくこと、そのことでゴーリキイは、「どん底」を描き出しつつその「どん底」で腐らされるには人間があまり貴重なものであるという自覚にそって、あれだけの作家となったのであった。
『煉瓦女工』の作者は、いかにも修飾なく「ガラクタ部落」と自分から呼んでいる生活の周囲を描き出している。非常に達筆に描き出している。そういう環境の中でやりとりされる言葉が生活そのもののむき出しであると同様むき出しである、それが反映した迫力をもっている。けれどもこれ迄の彼女が何も読まなかったということは、これからの彼
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