若い婦人のための書棚
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)屡々《しばしば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)子が婚姻をするのは年齢を問わず[#「年齢を問わず」に傍点]
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私たちのまわりには何と沢山の本があることだろう。ほとんどおそろしいほどどっさり本がある。けれども、私たちがそれを読む時間も金も限られており、何かの形でまとまった系統を立てて、ごく毎日の生活の滋養になるような工合に本を選び、それをポツポツと読んでゆくことは容易でない。
ブック・レビュウをして深く感じることは、ただ月二三冊の新刊の本をとりあげていって見ても、読者の本を読んでゆく一貫した方法というものに対しては、大して貢献するところがないであろうという不安である。そこで、本月と来月とはこれまでのいわばしきたりを変えて、一つちょっとした試みをして見たいと思う。何年の間でも読者に役に立つような読書プランというようなものを、即興的にではあるが、こしらえて見たい。
従来からも、日本は家族を中心においた風習の国である。その家族を単位とした社会の生活の中で、また家族の生活そのものの中で女はどういう位置を占め、今日までの歴史を生きつづけて来ているのであろうか。昨今は、日本の女と家庭の結びつき、母としての女が女の最上の生き方であるという考えかたが強められて来ている。だけれども、一方では新聞で見てもわかるとおり、若い女が戦時の必要のために工場へ出て働いている数はおびただしいものになって来ているし、女の生理に害があるといって禁止されていた女の鉱山の地下労働へも女がまた今は入ることになって来ている。経済の事情が入りくんで来るにつれて、親子、夫婦、兄妹の家族内の関係もいろいろと複雑になって来ていて、私たちが真に人間らしい心持で、家族の生活を守り、高め、美しいものにしてゆくためには、今日ただ自分ひとりの気の持ちようだけでは屡々《しばしば》破綻する現実の事情におかれている。女と生れたからには、女として十分花咲き、実をも結んだ生涯をどんなに私たちは望んでいるだろう。女に生れて残念だということが、いわばしっかりした女のひとの口からもれるような世の中であってはならない。しかもそういう実際があるとすれば若い女の世代は狡くそれから自分一人だけの身をかわしてしまわず、女全体の関係していることとして、堅忍に勇ましくそれを着実な方法で、ましにしてゆくために毎日の努力がされなければならないのだと思う。
「家族制度全集」という叢書が東京河出書房から出されはじめた。法学博士穂積重遠、中川善之助両氏の責任監輯で、各巻第一部史論篇、第二部法律篇(各一円六十銭)全部で五巻十冊の予定である。内容は婚姻。離婚。親子。家。相続。各巻をなしていずれも、今日に至るまでの社会の歴史の発達の面からの史論と、現在行われているそれぞれに関係の法律の解説とがされている。第三巻親子までが出版された。執筆者がそれぞれの専門家であり、一般の読者を考えて書かれているから、日本における家族、家庭のありようを眺め、理解するために有益な全書である。たとえば第一巻婚姻の史論篇の内容は、婚姻史概説。自然法的婚姻及び離婚論。日本結婚風俗史。一夫一婦論。妾。婦人と政治。婦人の国際的保護。妻の所得の保護。ソヴェトの婚姻法。フランスにおける内縁問題。結婚優生学。これらの各項をそれぞれの専門家が執筆している。第二巻法律篇は、婚姻法概論からはじまって、妻の無能力(法律上)。内縁。国際婚姻法。最後に民法改正要綱解説として、穂積重遠博士が序言及び婚姻を執筆していられる。この民法改正要綱は昭和二年政府が臨時法制審議会を設けて、我々に日常関係ある民法のうち、親族、相続法の改正案を審議した。
私たちは、日ごろ結婚というものを主として対手の有無によって話しているが、日本の親族法は、男満三十年、女満二十五年に達するまでは、婚姻をするのに父母が法律上の同意を示さなければ成立しないことになっている。子の婚姻を承諾しないことは全く親の自由であった。だから先日も新聞にあったように、息子の妻の入籍を親が許さなかったため、その息子の戦死と孫の出生でかえって父母の歎きが深いというような実例が生じる。改正案では、子が婚姻をするのは年齢を問わず[#「年齢を問わず」に傍点]、父母、祖父母[#「祖父母」に傍点]の同意がいることになり、未成年者がそれに反した婚姻をすると、父母、祖父母が取消してよいことになっている。元は男三十歳女二十五歳以後は婚姻は自主的にされたが、改正案によれば例え四十の男と三十歳の女とが結婚するにも、父母祖父母までの同意を要するということになる。しかし従来の親族法では、父母が同意するしないは父母の絶対の自由であったが、改正案では、相当の理由なくては反対できないということにされている。
妻が日本では法律上無能力であり未成年者や禁治産者(精神異状その他の理由による)と同様独立の人格と認められなかったことは、実に枚挙にいとまない女の悲劇、自殺を生んで来ている。改正案はこの妻の無能力と夫婦の財産制を改め、代りに「婚姻の効力」によって、「妻の能力は適当に之を拡張すること」を提案しているが、やはり妻が法律上有する能力の範囲は、適当と考えられる範囲に、限りとどめられるわけである。
本の性質として、細かい実例や插話は入っていないから、いわばかたい本である。けれども、以上のような一つの例を見ても、私たち女が、日本で、女であるということはどういうことであるのかという現実の条件を知ることができ、また、子であり妻であるとはいかなる意味で現れているかという事実がわかり、やはり有益であると思う。女としてさまざまの感想も、おのずから無くはないのである。
ところで、これらの全書は、主として日本の歴史と今日の実際をとりあげているのであるが、私たちの興味はここから自然ひろがりさかのぼって、家族の発生や財産というものの発生について世界の人類が経て来た道が知りたくなってくる。それについて、人類はいくつかの興味ある研究をとげている。
一、モルガン著(改造文庫)古代社会 上下
一、ベーベル著(改造文庫)婦人論
一、リヤー著(岩波文庫)婚姻の諸形式
一、ラッパポート著(改造文庫)社会進化と婦人の地位
一、能智修彌著 婦人問題の基礎知識
(これは古本屋でさがすしかない)
なぜ有名なエレン・ケイ女史などが、二十世紀の初頭に恋愛と結婚を中心に婦人の問題をロマンティックではあるが、女の立場としてとりあげるようになり、イギリスの、パンクハースト夫人がほとんど狂熱的な行動で婦人の参政権を要求しなければいられない気になったかという社会事情が、以上の本でわかる。とくに後の二冊はヨーロッパ大戦後、一躍した世界の女の諸事情(もとより日本をこめて)を示している点で有益だと思う。
こういう人類の歴史の大筋を一方に眺めつつ、それと関係をもって古典から現代までの文学作品を見渡すことはたいへん面白いことである。なぜなら文学史というものは、その脊骨の中に社会の歴史をひそめて今日までのびてきている。作家も読者も作中人物さえもそれぞれ時代の歴史を照りかえし、またその歴史を交互に営んで生きつづけてきているのであるから。手近な文学作品の書棚で私たちの見出すのは何だろう。
シェークスピア全集は随分流布した。「ハムレット」のオフェリヤ。「マクベス」のマクベス夫人。「ベニスの商人」のポーシャ。「リア王」の三人の娘たち。「オセロ」のデスデモーナ。色とりどりの可憐さ、鮮やかな性格と情熱と才智とで、男の政治、経済の波瀾、権謀の中に交錯してゆく女の姿が描かれている。
近代国家イギリスを盛立てたエリザベス女皇の時代の社会の文学として、シェークスピアが、古代ギリシャ文学などに女が運命の神と男の掠奪のままに生涯を流転した(トロイの美しきヘレンの物語)歴史から出た当時の女が、自分の心情に従ってよくもわるくも動こうとする姿を描いているのは興味がある。しかし沙翁の女は、経済にも政治にも大体かげで男を女の魅力と才覚とで動かしてゆく女が描かれているのは、モリエールの喜劇などにあつかわれている女の姿と共通のものがあって興味ふかい。
ジョルジュ・サンド「愛の妖精」「アンジアナ」(岩波文庫)は、十九世紀のロマン主義時代に生れたフランスの婦人作家が、女にとって苦しい結婚生活と宗教との負担に、情緒的に反抗しつつその解決は作品の中でだけ可能な夢幻境へ逃避の形でまとめているのは注目にあたいする。バルザックの「従妹ベット」「ウウジニイ・グランデ」、モウパッサンの「女の一生」(以上岩波文庫)などは法律の上にも経済の上にも受け身な女の一生の真情の悲劇を心を貫く如く描いている。「寡婦マルタ」(改造文庫)はポーランドの婦人作家オルゼシュコによって書かれているが、この作品は従来の女の教養が不幸を救う実力でないこと、近代勤労婦人発生の黎明期の物語として見のがすことのできない価値をもっている。
イプセンの「ノラ、人形の家」はもうふるいと一部にいわれるが、そのふるくない解決へ何歩私たちは歩み出し得ているだろうか。ツルゲーネフの「処女地」「その前夜」は歴史がその解決の試みへの足どりを示している。ジイドの「女の学校、ロベル」などは若い人々に読まれるが、この作者独特の観念のかった扱いかたで、現実の道は案外にもアグネス・スメドレイの「女一人大地を行く」を貫いて発展して出て来たところに通じているのではなかろうかと思われる。
日本文学が、万葉集時代、源氏、枕草子その他の王朝文学から「和泉式部日記」「更級日記」「十六夜日記」の母としての女性、徳川時代の「女大学」の中の女の戒律がその反面に近松門左衛門の作品に幾多の女の悶えの姿を持っていることは、意味深い反省を私たちに与える。夏目漱石の文学のほとんどすべてが「こころ」「それから」「明暗」結婚や家庭生活における男女の生活態度の相異相剋と、母とその母の子ならざる子との情愛の陰翳、また誤ってされた結婚の悲劇をめぐっているのは日本の社会の何を語っているであろうか。
「大地」
ポール・ムニとルイズ・レイナアとが主演している映画の「大地」は中国を背景として製作されたアメリカ映画中の傑作であった。映画の圧倒的好評につれて、第一書房は出版当時はそれぞれ分冊として発売していたパアル・バック夫人の「大地」「母」「息子たち」「分裂せる家」と作者が自分の父母の生涯を描いた二冊の作品とを代表選集として売り出している。
既刊の五冊を読んだ感想として、パール・バックが中国の生活を描いたこれらの作品は、とくに今日の日本の読者にはぜひ熟読されるべき性質のものであるという感が深い。パアル・バックはアメリカ人である。中国の奥地へ入って、そこで生涯を終ったアメリカ宣教師「闘える使徒」として彼女に描かれている父の娘として、ずっと中国で成長し、アメリカの大学に教育され、中国農業問題研究者として権威をもっていた人の妻であった。
バックは中国の民衆生活の日常の現実に身をもってふれている。王龍とその妻阿蘭とが赤貧な農民としてあらあらしい自然と闘い、かつ社会の推移につれて偶然と努力との結果、次第に地方地主となりさらに押しすすむ時代の波にうたれて一族のある者は封建的な軍閥将軍に、ある者は近代中国資本主義の立役者になり、その孫のある者は急進的な道に進む王家の三代の歴史が、中国の複雑な社会の相貌を反映するものとして、強く描き出されているのである。
バックがアメリカ人であって、しかも中国の民衆が外国人の力に自分たちの生活をかきまわされることを欲してもいないし、必要ともしていない事情を、はっきり描き出しているところは注目に価する。中国に対する諸外国人の抱いている優先の偏見に向って、中国民衆のハートをひらいて見せ、そこにある声の響きをつたえようとしているのである。
「大地」からはじまる王家三代の物
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