年、中部フランスの貧しい家に生れ、五つ位のとき母に死なれ、後は父親がぐれ出して孤児院で育った。十四五歳から後は孤児院から農家の羊番娘にやらされ、十九歳ぐらいのとき、巴里へ出て来た。女裁縫師としてオオドゥウの辛苦の生活が大都会のきわめて目立たない一隅で営まれはじめたのであった。
 腺病質で眼の弱かったオオドゥウは中年にいたって、ついに盲目になりたくなかったら裁縫をすてろと医者に宣告された。絶えず病気で、非常に貧しく、ときどきその日のパンにさえ事を欠く彼女は「自分の苦難を少しでも忘れるため、自分の孤独を慰めるため、自分自身の伴侶になるような気持で」ものを書きはじめた。
 偶然のことから二三の作家と知り合うようになり、オオドゥウの作品の特別な魅力が彼らを動かした。「小さき町にて」「ビュビュ・ド・モンパルナス」「母への手紙」の作者、シャルル・ルイ・フィリップも熱心な彼女の支持者であったが、自分のためにさえ何もなし得なかったフィリップにはマルグリットを世のなかに押し出す力はなかった。それをしたのは、この日本訳にも序文の出ているオクタアヴ・ミルボオ「小間使いの日記」の作者である。
 原名「マリイ・クレエル」というこの作品は一九一一年に出版され、発表と同時にフェミナ賞を貰った。彼女は後二十六年の間に「マリイ・クレエルの工房」その他三巻の小説を書き、最後の作「光ほのか」を完成して一九三七年二月に南仏で歿したのであった。
 マリイ・クレエルの孤児院生活の描写からはじまる「孤児マリイ」の一篇は、堀口大学氏の手に入った訳であればあるほど、原文の味わいはどのように新鮮、素朴、簡美であろうかと、フランス語でよんでみたくなる作品である。孤児院の仲間の女の子の性格、マリイ・エエメ教姉のかくされた激しい情緒が迸る姿、院長の悪意。実によく短いはっきりした筆で描写され、とくにマリイがヴィルヴィエイユの農園の羊番娘としての生活の姿は、四季の自然のうつりかわりと労働の結びつきの中に、無限の絵、ミレーの羊飼い女などのような絵と音楽とを感じさせる。オオドゥウのみずみずしく落着いた筆致は、フランスの農場管理人の生活をもはっきり示しているのである。
 農場主の妻デロア夫人の冷血さ、息子アンリイに対するマリイの感情、こういういきさつはしばしば小説の中に描かれている。「テス」にしろ、ブロンテの「ジェーン・エーア」にし
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