く歴史のあかしとして見る。青春は単に題材となるだけのものではない。

 十六歳ぐらいになっているきょうの女の子が、ひとりの人間として、どの位確立しているか、少くとも自分の力で人間として確立しようと努力しているかという事実を、きょうのおとなは、それが必要なほど十分知っていないのではなかろうか。
 母親の育った時代、いわゆる女学校教育はあったけれども、それはきまった内容だったし、人間交渉の課題として、いまあらわれている男女共学もなかった。
 姉の時代は学徒動員で、そこには青春の破壊とそれによって不具にされた若さがある。
 いま十六になったわかい人たちのなかで、少し考えるひとは、その二つの姿に、自分たちはどう生きようとしているか、という課題を対決させずにはいられない状況に生きている。そこに、深い不安がある。はやく自分の力で生きるようになりたい。こんなにもそうして生きることが正しく、自然だと思えるのに、十六歳の人生は、まだ封鎖されている。自分として経済能力もまだない。もしあるとすればそれは年少な人たちの労働力をしぼる仕くみである。
 十代のひとの発言が、社会的な意味をもつものとして登場しはじめ
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