代として登場して来たことは、日本の一般が、人間というものについて、いくらか複雑で立体的な理解をもちはじめたことを語っている。ほんとにどんな大人でも、しずかに自分たちが生きて来た道をかえりみれば、十二、三から十五、六、七歳ごろの月日が、どんなに感銘にみちたものであったか、考えずにはいられないだろう。大人は自分たちの十代をかえりみたとき、とかく、わたしがそのくらいの年ごろだった頃には、と、少年少女としての自分がおかれていた境遇と、それにつれて現在では物語めいて変化しているその時代の様相を想い起す場合が多いらしい。
そして多くの場合、そういう境遇とか、世相とかにおいて、いまの少年少女、わかい人々の生きかたと、かつてあった生きかたとを比較したがる。――しかもおとなとしてのきょうの心で――
だけれども、そういう方法は、大人の方法で、しかもふるい大人、若いものと自分たちという区別の意識からぬけられないタイプのおとな[#「おとな」に傍点]の方法だと思う。
多くの可能のひそめられている人間誕生として、赤坊を見るこころをもっているおとな[#「おとな」に傍点]。小さい人間の成長過程として男の子供、女
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